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2009年 01月 23日
はっぴいえんど(3)
はっぴいえんど(3)_c0075476_2352398.jpgいつ果てるともしれぬはっぴいえんどの旅路。さて続きといきましょう。
ヴァレンタイン・ブルーの初ライブは1969年10月28日でしたが、これはあまりうまくいかなかった模様。しかし、チャンスはどこに転がっているかわかりません。11月23日、細野と大瀧というとんでもないデュオがステージに立ちます。代々木区民会館の「フォーク」コンサートです。フォークと冠されている以上、無論エレキギターやベースを抱えることはできないため、細野のフォークギター一本という潔いスタイル。今こんなステージを観ることはおそらく不可能に近いと思われ、会場にいた人がうらやましい限り。時代のなせる業でしょう。ここで、細野、大瀧のオリジナル、ジョニ・ミッチェルの「チェルシー・モーニング(あんな音域の広い歌をどうやって…!)」の三曲を歌っています。この時聴衆の中にいたのがURCのディレクター小倉栄司、現在でもよく音楽雑誌やアルバムのライナーノートでお目にかかりますね、「小倉エージ」と書けばピンとくる人もいるんじゃないでしょうか。同じくURC関係の元ジャックス・早川義夫もいたそうです。
エイプリルフールの頃から細野に強い興味を持っていた小倉は、コンサート終了後ふたりにレコーディングの話を持ちかけます。ふたりともURC?なにそれコーヒー?みたいな状態だったらしいですが、レコーディングの話をされて気を悪くするミュージシャンはいません。
ここで、細野、大瀧両氏のようにURCとはなんぞやと疑問を持った方々に説明すると、URCレコードとは、「受験生ブルース」などで有名なフォーク歌手、高石友也の音楽事務所を母体とした、非営利的側面の強い音楽事務所「音楽舎」の会員制レコード頒布組織「アンダーグラウンド・フォーク・クラブ」が発展してできたものです。主に反戦フォーク、とりわけ関西系フォークの牙城といったイメージが強く、岡林信康、高田渡、中川五郎、五つの赤い風船などが所属し、何だかんだで結構うまいこと商業ベースに乗っかっていました。高石友也は、歌手としてはもちろん、実業家としての手腕があったのでしょう。
翌70年1月16日、ヴァレンタイン・ブルーのレコーディングは正式に決定されます。小倉は、ヴァレンタイン・ブルーを、当時飛ぶ鳥をガンガン落としまくっていたフォーク界の寵児、岡林信康のバックバンドへと据え(ちょうど彼がボブ・ディランのようにエレキに転向しようとしていた時期でした)、そのキャリアを通じてヴァレンタイン・ブルーをプロモートしていくという意図があり、実際に岡林本人から要請がありました。
細野は最初渋ったものの、非常にしたたかな野望を持ってこれを承諾します。それは「演奏技術の向上」と「経済的保障」です。なんと岡林信康をダシに使って、ちゃっかりステージ経験を積み、ついでにマネーも稼いじゃお、というのです。このくらいのがめつさ(情熱という美しい言い方もあるにはありますけども)がないと、この世界でやっていくのは難しいということなのでしょうか。思い出してみれば、細野が立教大学の学生だった時分に、「エイプリルフール」に参加したのも「給料が出るから」であったことを鑑みれば、これは当然の選択だったと言えるかもしれません。
この選択は、実際にヴァレンタイン・ブルー(はっぴいえんど)の将来に良い影響をもたらしました。岡林信康のバックで演奏する彼らはまさに、ボブ・ディランにおけるザ・バンドと言ってよく、一気にその知名度を上げる効果があったことは間違いありません(マイナーシーンではありましたが)。と同時に、後々まで「あ、岡林の後ろのひとね」と、名前を覚えてもらえず「あのメガネ」などと呼ばれてしまう人と同じ宿命をも背負うことになりました。“演奏に徹する職人”といったイメージが強く、彼らの特異な創造性に耳目が集まらないという現象がそれです。

この年、2月から3月にかけて、特筆すべき出来事があります。
はっぴいえんどのファーストアルバム「はっぴいえんど」には、ずばり「はっぴいえんど」という名の曲があり、細野はそれにインスピレーションを受けてバンド名を「はっぴいえんど」に変更したのです。さて、この一文に「はっぴいえんど」は何度使われたでしょうか。
当初は「ハッピーエンド」と片仮名表記だったものを、70年8月のファーストアルバム発表時に平仮名表記を採用しています。70年6月発売の岡林信康「見る前に跳べ」のクレジットでは、まだ「ハッピーエンド」のままなのだそうです。アルバムをお持ちの方はブックレットをチェックしてみるのも楽しいですね。
バックバンドの初仕事は遠藤賢司だったなんてトリビアを挟みながらも、3月18日、いよいよはっぴいえんどの初レコーディングが始まります。ディレクターは早川義夫。

が、しかし。

この日の演奏は、完膚なきまでにガッタガタのボンニョボニョでした。
何が原因かはよく分かりません。何か悪いものでも食ったのでしょう。グレーゾーンな生ガキとか。或いは夜に爪でも切ったのでしょうか。ともかく、この日のサウンドは、ミキサーの吉田保(吉田美奈子の実兄)が憤慨して帰ってしまったという伝説が残っているほどのひどさでした。そこまで言われると、一回聴いてみたくなるのが人間のフシギなところですね。ディレクターとミキサーは、両方ともレコーディングを降りてしまいます。満を持してはっぴいえんどを連れて来た小倉栄司の心中やいかに!
と、いうわけで、先に岡林の「見る前に跳べ」のレコーディングが先行されることになりました。自分たちの失敗もどこへやら、このレコーディングは、完全にはっぴいえんど主導で進んでいきました。すごく緊張感のあったレコーディングのようで、後に岡林は、

「何か言ったら殴られると思った」

と、ラモーンズにビビるジョニー・ロットンのようなセリフを残しています。
さてその後、延期されていたはっぴいえんどのレコーディングが4月9日に再開されます。ディレクターの椅子には小倉栄司が座り、当時の日本の水準から見れば革新的な音づくりが始まりました。レコーディングは9日から13日の早朝まで続き、鈴木茂の「やあ、すがやかな天気だなあ」の名台詞(「すがすがしい」と「さわやか」がフュージョンしたらしい)のもと、アルバムは完成しました。残っていた「見る前に跳べ」のレコーディングが終わると、岡林のバックバンドとしての初仕事、渋谷公会堂「岡林信康壮行会」をむかえます。しかし何でしょう、この高校総体を彷彿とさせるネーミングは…。はっぴいえんどはこの後、翌年の1月まで、岡林のバックバンドとしての職務を果たします。これは、はっぴいえんどに知名度と、経済的な保障を与えた一方、聴き手が岡林とはっぴいえんどを同一視するという弊害も生まれてしまいました。

ファーストアルバム「はっぴいえんど」について。
発売:1970年8月5日 URCレコード
・通称ゆでめん。アルバムのジャケットを見れば、その理由は一目瞭然。
・全曲とも、日本語詞である。当時はこれが画期的だった。しかも、とりあえず日本語を乗せてみました、といった体のものでなく、詩情に富んでいる。松本隆の才能に負うところが大きい。
・楽曲の構造・構成が非常に緻密である。はっぴいえんどはよく、バッファロー・スプリングフィールドとモビー・グレイプを足して二で割った、等の評価をされるが、表面的なコピーではなく、深く自らで消化し、新たな発明をふんだんに用いた音になっている。
・楽器、音楽理論に精通していた。はっぴいえんどのメンバーは、多様な楽器を用いて、それらの楽器の特性を十分に引き出すような、効果的な使用をしている。特にパーカッション類の扱いにはかなり熟達していたものとみられる。
・アルバム・デザインに表れたトータリティ。サウンドとジャケットのデザイン が、ひとつのテーマを持って訴求してくる。林静一のジャケット・ワークは今見ても秀逸。バッファロー・スプリングフィールドの「アゲイン」にヒントを得「スペシャルサンクス」を付随させ、はっぴいえんどを理解する上で重要なカギとなるアーティスト、詩人の名を列挙している。これらを見たり読んだりすれば、ある程度はっぴいんどがいかなるバンドなのかを把握することができる。余談だが、音楽配信華やかりし現在、いかにして、このようなトータリティを表現させるのか、興味深い点である。

この一枚のアルバムをもって、日本語ロックの地平は開けてゆきます。

続く                                            
<ナカムラ>

by beatken | 2009-01-23 22:58 | review


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