2009年 04月 04日
はっぴいえんど(4)
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3.日本語とロックと五人目のはっぴいえんど

 はっぴいえんどの「日本語のロック」というコンセプトは、『はっぴいえんど』でほぼ実現されたと言われています。何事も、端緒をつけるパイオニア達には様々な暗中模索が課され、そのサウンドや歌詞にはまだ若干の生硬さが感じられるものの、松本・大瀧のタッグが創り上げた数々の名曲の中には、確かに日本語でしか表現できない(「春よ来い」「12月の雨の朝」など)ものが存在しており、演奏技術、アレンジの点においても当時の日本の最高技術レベルであった事は間違いなく、このアルバム以降、日本のロックが「日本語」を意識していく事になるのです。
 ここで、特筆すべき一つの論争があります。「日本語のロック論争」と呼ばれるもので、発端は、70年8月3日、『新宿プレイマップ』10月号のための座談会で、出席者の一人である内田裕也が、大滝に対し「日本語はロックに乗らない」という批判を浴びせた事に始まります。この論争はファンをも巻き込んで翌年まで持ち込まれ、再びNMM(ニュー・ミュージック・マガジン)誌5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」における座談会(福田一郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、大瀧詠一、松本隆、折田育造、中村とうよう、小倉エージ)にて論議されています。一連の論争から、内田裕也を代表とする「アンチ・日本語ロック」側の意見をまとめてみると、

①日本語はロック・ビートに乗らない。あるいは乗りにくい。
② 海外で成功するには英語でなければならない。
③ URC系の作品が不当に高く評価される理由が分からない。

の三点に集約されるようです。中でも③が、最も強調されていました。①、②に関しては、それが当然であることは誰の目にも明らかであり、しかし、考えてみると、海外ミュージシャンのオリジナル英語詞を、正確な発音で歌えるようなアーティストは、当時ほとんど存在していなかった事もまた事実であり(現在は随分とその辺りが進歩したように見受けられますが)、つまりは、はっぴいえんど側における、「輸入品のロックを日本的風土のなかで定着させる」試みと、内田裕也側における「輸入品は輸入品として、正確にコピーしよう」という方向性の対立といえます。もっと言えば単に内田裕也がURCを好きじゃなかったんでしょう。暗いとか言って。まあ人それぞれ色々な評価があります。絶対的な評価を万人から受けるものなどこの世に存在しないのです。
 はっぴいえんど自身、ステージでのレパートリーは日本語にこだわらず、バッファロー・スプリングスティーン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを演り、日本語詞についてもボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルなどの影響を色濃く受けています。いずれにしても、はっぴいえんど側は論争に積極的ではなく、もっぱら反対側からのふっかけだったという話です。
 さて、はっぴいえんどのライブ・パフォーマンスですが、アルバムの完成度の高さとは打って変わって、悪評高いものであったことは否定できません。これは、アルバムの多重録音を、四人だけで完全に再現する事が技術的に不可能であったこともありますが、何より彼らは、個々の技術は高いものの「練習嫌い」で有名であり、そのための凡ミスも多く、それは以前部室で、はっぴいえんどのライブ盤に合わせてベースを弾いていた某氏が、「これ半音ずれてる。チューニング狂ってるよ、ほら」といって弾いて聴かせてくれたことからも立証されているでしょう。大瀧詠一のヴォーカルとバックの演奏のキーが合っていない、なんてこともあったようです。また、細野は自分が歌うのをあまり好まず、細野のレパートリーも大滝が歌っていたことなども、原因の一つだと言えるかもしれません。とはいえ、すべてのライブがひどかったというわけではもちろんないことは、当然言っておかならないでしょう。
 デビュー初年の70年について、もうひとつ触れておかなければならない人物がいます。「五人目のはっぴいえんど」石浦信三です。坂本竜馬における中岡慎太郎のような存在だと言えばもっと分かりにくくなるでしょうか。
 石浦信三は、松本隆の小学校5年以来の友人で、松本がはっぴいえんどを結成する頃から、アドバイザーとしてこれに関わり(当時慶応大学在学中)、すでに『はっぴいえんど』のコンセプト・ワークの段階から、はっぴいえんどの方向性を補強する理論的・精神的支柱の役割を果たし、「日本語のロック」に対する攻撃から身をかわすための戦略さえ提供したと言われていますが、しだいにマネージメント的な仕事も引き受けるようになります。この石浦の存在が、翌71年以降のはっぴいえんどの音楽活動および日本のロック界の動向に少なからぬ影響を与える事になります。
 71年のはっぴいえんどは、三つの業績を残しました。セカンド・アルバム「風街ろまん」の製作、URC系のアーティストを中心とした数多くのスタジオ・ワークをこなし、ミュージカル・ディレクターとしての地位を確立し始めた事、そして、単なるマネージメント・オフィスを超えたミュージシャン・アーティスト仲間の統一体「風都市」を設立したことです。
 はっぴいえんどの音楽性は、松本・細野の強力なコンセプトに従って、優れた作曲家、ヴォーカリストである大瀧詠一、天才ギター少年鈴木茂がその才能を爆発させるという形で発展してきたものであり、それだけに、船頭多くして船沈むのたとえではありませんが、四人が全く同じ方向を向いて活動できる期間には、おのずと限りがありました。個人が自分達の独自性を主張して対立し始めるのは時間の問題でした。しかし、「日本語のロック」という原則だけは、四人が等しく共有するものでした。と、なれば、最も重要になってくるのは松本隆の書く日本語詞ということになり、松本はその期待に見事応えるのでした。それが、かの名盤「風街ろまん」です。
 
 アルバム『風街ろまん』(71年11月発売)について
・ 60年代末期的な、いわゆる『ガロ』誌の世界観から決別し、70年代の都市の再生と復権を多彩に表現しようとしている。

・ その詞に注目すれば、前作『はっぴいえんど』に比べてはるかに洗練されていて、言葉自体にリズム感があふれていた。「風」と「街」を主旋律としたその表現の構造は、建築家であり詩人である渡辺武信の影響を受けている。が、その「言葉たち」が、細野、大瀧、鈴木の表現力と幸せな結合をしたとき、すがすがしい緊張感と、都会を通り抜ける颯爽とした風のような珠玉の楽曲群となった。

・71年四月中旬から始まった延べ、約六ヶ月間という、当時としては異常な長さのレコーディング。二百数十万円といわれるスタジオ・レンタル料も破格だった。前作の高評価を受け、はっぴいえんど主体でレコーディングは進められた。ミキサーに、アメリカから帰国した直後の、精気と才気に溢れる吉野金次、ビクター所属の梅津達男(会社の関係でクレジットは近藤武蔵)、さらにキングのハウス・ミキサーだった山崎聖次の三人を配し、A&Rマン(アーティスト・アンド・レパートリーの略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する)的なディレクターをミュージシャンでもあった岩井宏(アート音楽出版)が担当、キングの三浦光紀(のちのベルウッド・レコード創設者)の協力を仰ぎながら、石浦達三(風都市)のマネージメントのもとで、レコーディングは進められた。

・ 代表曲としては「はいからはくち」(松本・大瀧)「風をあつめて」(松本・細野)などがある。「はいからはくち」は、“ハイカラ白痴”と“肺から吐く血”を意識的にダブらせた「はいからはくち」は、日本・東京文化圏の重層的な構造を、松本隆がアイロニカルに表現した作品。“ハイカラ”という死語の再生、日本語的な“音韻”へのこだわり、松本隆は言葉の持つエネルギーを、この「はいからはくち」で引き出そうとして成功している。その詞が、大瀧詠一の持つ、ロックンロールへの深い造詣によって裏打ちされ、ロックの持つ毒がリアルに体験できるイカシた一曲となっている。「風をあつめて」はファースト・アルバムの細野作品からは意外とも思えるアコースティックな作品。当時細野が影響を受けていたといわれるジェイムズ・テイラーの雰囲気を感じさせる。「歌う」ということに恥じらいと抵抗の見えた以前とは異なり、彼は小坂忠のアルバム「ありがとう」(71年10月発売)の製作に関与する過程で、低音で素朴に表現する歌唱法に開眼し、「風をあつめて」でそれを結実させた。松本の詞が極めて視覚的、鮮やかなイメージを伴う完成度の高いもので、東京の都市、風景がもつ匂いを「です、ます」という日常的な語尾で表現している。これはそれまでの音楽を見てもあまりみられない新鮮なものであった。ちなみに、はっぴいえんどは今まで一度もこの「風をあつめて」をライブで完璧に演奏できた事がない、と聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、レコーディングの際、全てを通しで弾くのではなく、一小節ずつパンチ録音していったという噂もあるくらいなので、本当かもしれない。

続く。
<ナカムラ>
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by beatken | 2009-04-04 17:13 | review


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