2008年 10月 22日
はっぴいえんど(1)
c0075476_18263785.jpg細野晴臣 - ベース、ボーカル:東京都港区出身。
ピアノやオルガンも担当する。
大瀧詠一 - ギター、ボーカル:岩手県江刺郡梁川村(現奥州市)出身。
松本隆 - ドラム、作詞:東京都港区出身。
鈴木茂 - ギター、ボーカル:東京都世田谷区出身

1969年「バレンタイン・ブルー」として結成、後に「HAPPY END」、転じて日本語表記の「はっぴいえんど」へと改名、URCレコードから『はっぴいえんど』『風街ろまん』、ベルウッドレコードから『HAPPY END』を発表している。1972年末解散。(wikipediaより抜粋)


自分がいかによく知っているものでも、他人にとっては全然まったく門外漢のチンプンカンプンのとんでもハップンだったりすることは世の常です。その辺の人捕まえて「かの有名なメネラウスの定理について質問したいんですけどー」と言ってみたところで質問された側にしてみればただひたすら周章、三歩下がって狼狽するより他なく、井の中の蛙、っていうのかどうなのかこの場合よく分かりませんが、自分のよく知っているものって他人も当然知ってると思い込んでいると大変文学的な人生になる恐れがあるので注意して生きていきたいものです。知らない土地に来て、地元のおばちゃんに道を尋ねたら「ホラッ!あのジャスコの向かいをグワッって入ったとこよ!ホラホラジャスコジャスコ!…知らない?分かるでしょあのジャスコよ」と謎のジャスコを連呼され(偶然韻を踏んでしまいましたが)、思わず「しらねーよ!」とブレーンバスターのひとつもお見舞いしたくなってしまうアレです。

そういうものの代表的な例が、音楽的に言えばこのはっぴいえんどに該当してしまうのではなかろうかと思われます。多分に個人的な意見ではありますが。この、日本語のロックを真剣に追求した四人組が残した三枚のアルバムには、その1970年代の「今」の空気と共に、現在今ここにいる我々にも同じように共感できる何かが凝縮されています。本来、西洋舶来の音楽であるロックが、単語自体にある種のビートが存在する英語でなく、異なった文法・発音体系を持った日本語で表現できるものなのか? それは、実のところまだ未消化のまま今日まで残されているように思われます。ただひとつ確実に言えることは、「日本のロック」というものが存在するためには、ただ海外からやってきたものをそのまま模倣し、そこへ日本語の歌詞を付加するだけでは全く不十分だったということでしょう。西洋におけるロックは、いきなり無からロックとして誕生した訳ではなく、それ以前のブルース、カントリー、R&B(年代的に先というだけであって、どちらが上というものではありません)など、黒人音楽を中心としたさまざまな音楽を吸収し、それが1950年代後半に結晶となって60年代に爆発した音楽であり、その成熟した果実のみを輸入し、銀の皿に並べてみたところで、肝心の幹や枝葉、さらに土壌や生育環境まで吸収するのは至難の業といえるでしょう。

しかし、そこに違った面白さを見出すことも可能なのではないか? そう考えることもできます。自己流の解釈、日本の視点から捕まえたロックというものがあれば(日本語でやる以上そうならざるを得ないとも言えますが)、それはそれとして独立した価値と魅力を備えることができます。これは他のことにも言えるのですが「勘違い」は意外に強いものなのです。多くの新しい文化が偉大なる「勘違い」によって生み出されているんじゃないか、とこれは個人的な推測ですが、そう思っています。
さて、では、どうしたらいいのか? となるとやはり頭を抱えてしまうもので、何事もまずは模倣から始まります。ここから、はっぴいえんどというバンドを通して、日本語ロックが挑んだ闘いについて考えてみたいと思います。

1.1969年4月1日
「日本語ロックの形成」を考えるにあたって、60年代に一世を風靡したGS(グループ・サウンズ)は避けて通れない道なんですが、今回はあえて避けます。すんません。話が膨大になり過ぎてしまう恐れがありますので。しかし、GSに関わった人脈が日本のロックを発展させていったことは、しっかりと認識しておきたいところです。特にザ・スパイダースの怪人、ムッシュかまやつことかまやつひろしのソングライティングなどは…。そしてはっぴいえんどもまた、GSとの縁が深いバンドなのです。
はっぴいえんどは、結成当初からはっぴいえんどだったのではありません。その前身となるグループがあります。それが「エイプリルフール」です。さらに、このエイプリル・フールにも母体となったグループ「フローラル」が存在していたりします。ややこしいことこの上ないですが、この「フローラル」は、もともとモンキーズ・ファンクラブの公募オーディションによって68年に結成されたGSバンドであり、ここにはっぴいえんどとGSとの繋がりが感じられます。もっとも、最初の「フローラル」には、はっぴいえんどのメンバーは一人もいません。メンバーが数人脱退した後、バンドの主要人物である柳田ヒロは新しいメンバーを探し始めます。そこである立教大学の学生に声を掛けるのです。彼は柳田の実兄が結成していたビートルズのコピーバンド「ドクターズ」でベースを弾いていて、当時から「あいつはウマイ」と評判でした。

ベーシストの名前は細野晴臣といいます。

柳田は、細野をレコーディングと月給五万円を条件に「フローラル」に誘います。卒業を控えていた細野は「半ば就職のつもり」でバンド加入を決心したそうです。この、なんとも軽い感じが、その後の事の重大性を鑑みると、なんともいえず格好良く思えるのは僕だけでしょうか。細野は当時サイケデリック・ロックバンド「バーンズ」でもベースを担当しており、そこにいたドラマーも、「フローラル」に加入することになります。この人物が、慶応大学の学生だった松本隆です。日本のロックシーンはかなり一局集中だったことが窺われます。
こうして出来上がった新生「フローラル」は、オリジナルメンバーである柳田ヒロ、小坂忠、菊池英二に、新たに加わった細野晴臣、松本隆の五人となり、1969年4月1日、日付にちなんで「エイプリル・フール」として新たなスタートを切ります(命名は細野)。

ここで後のはっぴいえんどのメンバーとなる二人が登場するのですが、音楽的なことがらについて少し説明を加えると―

細野晴臣は、早くからアコースティックなサウンド―ピーター・ポール・&マリー、キングストン・トリオ、ボブ・ディラン―の影響を強く受け、立教大学に入学後も、さまざまなアコースティックバンドに参加、ビートルズやマージー・ビート、アメリカのウェスト・コースト系の音楽(ビーチボーイズなど)やブルースロックなどにも多大な影響を受けながら独自の音楽性を見出していきます。音楽センスは他のバンドと比べても群を抜いており、複数のバンドから引く手あまただったそうです。。
ベーシストとしての側面が強調されがちですが、優れたアコースティック・ギタリストでもあった訳です。

松本隆は、小、中学校時代、クラシカルな音楽、特に20世紀のもの―ドビュッシー、マーラー、ストラヴィンスキー等―を好んで聴いていたようです。また、ポー、ランボー、コクトー、ボードレール等のヨーロッパ近代文学に没頭する文学少年でもありました。なんちゅー少年だったんだと突っ込みを入れたくなりますが、後々の活動を考えると妙に納得してしまいます。後にビートルズと遭遇(リアルタイムなのが羨ましい限り)し大きなショックを受け、リヴァプール・サウンドやシャドウズなどのインスト・ポップに惹かれていくことになります。そして、忘れてならないのは早川義夫率いる「ジャックス」の影響でしょう。

この二人だけを見ても、その音楽的な裾野の広さには驚嘆させられてしまいます。今でこそ、メディアの飛躍的発達によって、どんな小さな情報であっても探し出すことが可能になってきましたが、1960年代の日本にあって、これだけの音楽を聴く、ということだけでも、周囲からは相当な音楽マニアだと思われていたことでしょう。まだまだ海外の音楽事情についての情報が乏しく、レコードの発売もリアルタイムではなかったり、ミュージシャンについても僅かな知識しか持ちえなかった当時にして、これだけ豊富なカタログを収集することができたのは、ひとえに、音楽に対する情熱以外の何物でもないように思われます。「ちびまる子ちゃん」でも、花輪君が「ああ、ビートルズならブートレグ(海賊盤)まで買ったよ」と述べているように、ある程度の財力も必要だったことでしょう。まあ、この後ろに「大瀧詠一」という変態…もとい偏執狂、あ、あんまり変わらないや、とにかくそういう偉大な人物(マニア)が控えている訳ですが、それはまたちょっと先のお話です。

話は「エイプリル・フール」に戻ります。
細野、松本の二人はこうしてバンドに参加しますが、このバンドは結局アルバムを一枚残したのみで解散してしまいます。もしあなたの周りにこのアルバムを持っている人がいたら、その人は高確率でかなりディープな音楽好きと言えるでしょう。大切にしてください。ディスクユニオンのLPバッグで学校等に通っている人を時折見かけますが、そういった類の人物に多いような気がする、というのはあながち偏見とは言えないのではあるまいかと思いますね。このアルバムは時代性もあるのかサイケデリック色が強く、ボブ・ディランの「プレッジング・マイタイム」のカヴァーを除いて、すべてが英詞主体のオリジナルで構成されています。
1970年代を目前に控えたこの時期、世界的(主に欧米でしょう)にもロックが多様化へ向かいつつあり、もともとアコースティックでポップでロマンティックなものをロックとして志向する二人(この頃ジョニ・ミッチェルやローラ・ニーロなどを好んで聴いていたようです)、及びそれに共鳴する小坂と、他のメンバーのインプロヴィゼーション重視でジャズ的なアプローチが噛み合わず、69年9月のLP発売時点で解散はほぼ決定していたようです。三人は、脱退した後どうしようかなと、新しいバンドの構想を描き始めます。
ここで、「日本語のロック」という重大なキーワードが現れてくるのです。

細野、松本両氏にあった共通認識は”日本のロックのアイデンティティは「日本語」に求めるしかない”というものであり、当時の音楽シーンで言えば、遠藤賢司やジャックスの音楽性の中に、何か新しいものを感じ取っていました。ここからひとつ分かることがあります。それは、少なくともこの時点では「日本のロック」=「日本語のロック」と捉えている点です。一見当たり前じゃないか、とも思えますが、重要な視点なのです。つまり、音楽的には自分達が聴いてきた海外のロックを(自分達で吸収し、再構成するという過程は当然経ているとしても)土台にしているということです。音楽自体を大きく変革するということはしません。これは、しないのは良くないという意味では全然なく、そもそもロックとは外国で生まれたものであり、エレキギター、ベース、ドラム、キーボードなどが主体であるという、おおまかな「型」が存在していて、その「型」の部分にまで変化を加えてしまうと、当時にあって、それはいわゆる「ロック」とは呼ばれないものになるでしょう。ずっとギター、ベース、ドラムなどを演奏していた彼らにとって、音としての「ロック」とはすなわち(エレキ)ギターであり、それは四十年近く時間が経過した現在も、実はそう大きくは変わっていないのではないかと思います。言い換えれば、彼らはロックの「精神性」の方に重心を置いたのです。言葉とは、つまり国を表し、思考の根幹となるもので、今までの英詞のロックに対し、音楽性はそのままで(ただのポップスや歌謡曲になることなく)日本語が乗ったとしたら、それだけでロックが「日本のもの」として再認識されるのではないかという直感が、二人、ひいてははっぴいえんどにはあったのだと思います。そして後に、その直感は現実のものとなるのです。

続く
<ナカムラ>
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by beatken | 2008-10-22 18:27 | review


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