2015年 01月 17日
ビート研の活躍
というわけで、また更新してみます。
現役でもなんでもない一OBなので、もしなにかあればすぐコメント欄などで言っていただければ、すぐさま対応します。

さて、誰か読んでいるのでしょうか。
見えない誰かに向かって語りかけるというのは妙な気持ちのするものですね。

僕がビート研にいたのは2005年~2008年春なので、隔世の感というほどのもんでもないですが、今部室に行ってもただひたすら困惑されそうです。三年くらい前に一度ふらっと寄ってみたのですが、その時は部室が閉っていたので、ラウンジスペースで眺めのいい景色を見ながらコーラ飲んで帰ってきました。1Fのセブンイレブンで買ったやつ。

しょうもないエクスキューズをひとつすると、ここのホームページの管理人は、2005年になりゆきで僕が引き継いで以来継承されていないので、10年経ってしまった今も、力づくで言い張れば管理人と言えないこともないような気がしないこともないようなそんなフレーバーを醸し出すことも可能と言えば可能です。まあどう考えても無理があるのですが。

閑話休題。

そのころのビート研にいた人々は、今、様々な分野で活躍しています。
音楽の分野で。また、異なるフィールドで。
たとえば、最近メディアへの露出も増えてきたトリプルファイヤーというバンドには、ビート研の出身がいます。
ビート研界隈のメンバーで構成されたインストバンド、エネルギッシュ・ゴルフ(とんでもない名前つけますね)は、つい先日1/14日にファーストアルバムが発売となり、タワレコとかアマゾンとかで買うことができます。YouTubeで動画を探してみよう!
両バンドともに、都内中心のライブも多数あるので、ふらりと寄ってみるのも面白いもんです。俺は一人でふらっと行きましたが、ライブハウスにありがちな「アウェイ感」がなく、楽しくエキサイティングな雰囲気でした。

ビート研出身のバンドといえば、SCOOBIE DOのMOBYさんがやはり有名です。
一度学園祭に一升瓶持って応援に来ていただいたことがあり、たいそう感激しました。ライブもカックイー!

かつてビート研にいた方々や、今ビート研にいるみなさんが、これからどんな活躍をするのか、ワクワクしますね。

ではまた!
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# by beatken | 2015-01-17 23:01 | etc
2014年 08月 24日
ビート研のみなさんへ
ちょっと下の方ではっぴいえんどがどうしたと書いていた者です。OBです。でも歴史の長いサークルなので、割と新しめな方のOBになるのかもしれません。
今ビート研にいる人や、かつてビート研にいた人、チラッと来てダッシュで帰った人などに向けて、何か書いてみようと思います。いま、部長さんに断らず更新してしまうのもどうかと思ったので、あとで色々それなりになんとかしたいです。

このブログを立ち上げたのは、記憶が確かなら俺の代(というか俺は四年から入ったので世代というのはよく分からないんですが)のAというしゅっとした男で、彼は俺が一年遅れで入学したという時間軸のズレにより、入部したときにはすでに卒業をしていたという心温まるエピソードがあります。これだけ見ても、ビート研が当時いかに何も考えていなかったか懐が広かったかうかがい知れますね。きっと今現在も、また新しいビート研のメンバーが新しい空気をつくって面白く楽しく過ごしていることと思います。

そのブログ発起人の彼がいなくなると、名目上の「ホームページ管理人」が消えてしまい、それでも特に問題がないっちゃあなかったのですが、飲み会か何かのときに「何も役職ないことだし、とりあえずホームページの管理人やってよ」とお願いされ、言われるがままにブログのパスワードなど教えられ、ここの管理を任されました。主な仕事は掲示板にたびたび襲撃してくる桃色系迷惑アフィリエイト書き込みをせっせと削除することだったように記憶しています。
それから後引継ぎがなされたことは(おそらく)ないはずなので、あろうことか、まだここの管理人俺なの? というトンデモなロジックがここに完成してしまい、うっかりパスワードとIDを入れたら一発で通ってしまって今があるわけです。

もう長いこと訪れた覚えがないのですが、たしか2001年あたりにできた学生会館のE1117の部室、あそこはいまだに健在でしょうか。いつ行ってもグリークラブが野太くいい声でピアニカ片手に発声練習しているイメージがあったんですが、今はそのあたりどうなっているのでしょう。元々は一つ下の階に部室があったことを知っているでしょうか?今でも開かずの部室なんですかねあそこは。
部室の隣は何か練習室のようなところで、よく演劇サークルの役者さんらが稽古に使ったりしていたように思います。壁がやたら「ドーン ドーン」というので何事かと思ったら舞台の稽古だとわかり、なあんだ、それじゃあ仕方がないよね、と、それから音がするたびこちらも思いっきり部室の壁を蹴ったりしていた、なんてことは、多少あったようななかったような。しかしそれ以外は馬場、新宿、中野というサブカル中央線バミューダトライアングルみたいなところで入手してきたCDやらRECORDや、アイポッドを聴いて、時折ギター、ベース、コントラバス、コンガ、口琴、ホーミーなどを演奏している慎ましく優しいクラブでした。
内装は、いい感じのロックなポスターが絶妙な配置で敷き詰めて貼られ、本棚には誰かが寄贈して行った本でいっぱい。俺が置き遺していったレコードコレクターズ、まだ二、三冊あるのかな。
ここのホームページの掲示板は、2004年くらいからみんなmixiに移行し始めて過疎化が進みながらも、そこそこに続いていたのですが、掲示板の運営がストップしてしまったようですね。少し寂しいです。
ただ、調べてみるとビート研には、しっかりとTwitterのアカウントがあり、検索窓に「British Beat Club」と打ち込めばあっという間に出てきます。時代は変る。未確認ですがフェースブックなどもあるのやもしれません。

2009年の同窓会ライブの記事で更新が止まっていました。
この同窓会ライブはものすごい盛り上がり方をして、ビート研の裾野の広さを感じました。
打ち上げの飲み会で、OBの方々がこんな風に言っていたのが印象的でした。

「どんな音楽を聴いていてもいい。演奏していてもいい。オレンジレンジとかやってて全然いいから、ビート研が続いていてほしい」

これは、今の自分たちにしてみても、全く同じ想いです。
ビートルズ、ストーンズ、キンクス、バーズ、ニールヤングにボブディラン。黒人音楽。エトセトラ。
ブリティッシュじゃないのも結構あるな。
ビート研といえば、の雰囲気は、あってもいいし、なかったらなかったでもいいし。でもディランは今年ライブ行ったしなぁ、聴いてみてほしいなあ…。

みなさんの先輩は、驚異的なまでに卒業後飛躍しています。若干一名ブログ更新してる、ホーボーみたいなのがいますが。
あいも変わらず音楽聴いて、ライブしているみたいですよ。

興味がある人は、ぜひ入ったらいいんじゃないかな。
俺が四年で入ったとき、当時の幹事長が言い放ったのがこれです。

「いいんですいいんです、音楽に詳しいとかそういうの。こわい人とか嫌だし…」

ビート研に幸あれ。楽しくやってください!
単位とか頑張って取ってください。
早稲田駅隣「一休」で飲んだりしながら応援してます。ほっけが美味しいんだ。
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# by beatken | 2014-08-24 03:52 | etc
2009年 06月 15日
【Event】ビート研同窓会ライブ
ビート研同窓会ライブのお知らせです。

7月4日土曜日
新宿JAM
「British Beat Club同窓会ライブ」

オープン17:00
スタート17:30
前売り/当日1500円
ドリンク別(500円/飲み放題は2時間1500円←飲み放題にしたい方は受付で「飲み放題で」と伝えてください)

・出演(出演者敬称略)

2年バンド
(鳥居/芳/田中/櫻井)

三浦とアーリープロスト
(鳥居/櫻井/真島/吉田)

柴崎バンド
(柴崎/岡村/赤部/新間/土田)

thaipants
(徳山/石井/沼田)

THE SOUL ROUTE 90
(坂口(唄とハープ)/田中(ギターとコーラス)

THE LOVESUNS
(細田(vo.g)/酒井(b)/間々田(Dr.vo))

米田暮律苦 '77
(Vo.&Gt西田/Ba宮本/Drums高橋)

・タイムテーブル(予定)

17:00 オープン

17:30~17:55 ①2年バンド

18:05~18:30 ②三浦とアーリープロスト

18:40~19:05 ③柴崎バンド

19:15~19:40 ④thaipants

19:50~20:15 ⑤THE SOUL ROUTE 90

20:25~20:50 ⑥THE LOVESUNS

21:00~21:25 ⑦米田暮律苦 '77


新宿JAM
http://jam.rinky.info/map.html


(掲示板より転載byあかべ)
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# by beatken | 2009-06-15 12:54 | news
2009年 05月 31日
はっぴいえんど(6)
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 事実上「解散」状態となっていたはっぴいえんどを、もう一度だけまとめあげ、何とかアルバムを残しておきたいと考えていた三浦は、四人をそれぞれ説得する一方でシンコー・ミュージックに、ロサンゼルス録音の手配を依頼しました。ソロ・アルバム・レコーディング最中の大瀧にとっても、ソロ活動の準備に入りつつあった細野にとっても、アメリカ録音は等しく魅力的で、当初アメリカ行きに反対した松本も含めて4人揃って渡米することになりました。
 サンセット・スタジオ(ロサンゼルス)では、プロデューサーにヴァン・ダイク・パークスを迎えてレコーディングに入ります。ヴァン・ダイク・パークスは、’67年にアルバム『ソング・サイクル』できわめて高い評価を受けたアーティストで、リトル・フィートなどとも親交が厚く、プロデュースやアレンジにおいても豊かな才能を発揮していました。はっぴいえんどが渡米した’72年には、やはり名作の誉れ高い『ディスカヴァー・アメリカ』を発表、「東洋のロック・バンド」はっぴいえんどのプロデューサーとしては、うってつけの人物でした。
 スタジオ入りしたはっぴいえんどは、すでに解散直後“再結成”されたも同然のバンドで、当初メンバー間にはぎくしゃくとした空気が存在していましたが、レコーディングは滞りなく進められていきました。もっとも、大瀧はソロ・アルバム完パケの朝に飛行機に乗ってやってきたくらいで、当然作品の用意はなく、現地で急遽作曲、細野もはっぴいえんどのための作品は持ち合わせていなかったので、ソロ用に書いた曲を提供、鈴木だけが日本から松本作詞の作品を準備していました。
 はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』は、’72年10月13日から18日にかけてレコーディングされ、翌’73年2月25日にベルウッドから発売されました。このアルバムは、4人のアーティストのオムニバス・アルバムともいうべき作品で、はっぴいえんどの作品と呼ぶには少しはばかられるものがあります。はっぴいえんどの「ラスト」アルバムというよりも、細野、大瀧、鈴木、松本の新たなる出発を予告するアルバムだったといえます。
 しかしながら、同アルバムの最後に収録されている名曲「さよならアメリカ・さよならニッポン」は、紛れもなく“はっぴいいえんど”+ヴァン・ダイク・パークスの作品で、アメリカ文化圏と日本文化圏の狭間を泳ぎきろうとしたロック・バンド=はっぴいえんどの面目躍如、解散にふさわしい傑作であり、今日でもそのモチーフは色あせていません。
 この渡米録音の経験が、はっぴいえんどの4人にもたらした影響は少なくありませんでした。まず何といっても、自分達の音楽のルーツであるアメリカに初めて渡ったことから得た一種のカルチャー・ショック。そしてヴァン・ダイク・パークスという鬼才から学んだサウンド作りのスピリット、テクノロジーがありました。この影響は計り知れないものがあり、細野、大瀧、鈴木、松本の4人とも、システムとしてのプロデュース、テクノロジーとしてのプロデュース、スピリットとしてのプロデュース、さらにアレンジメントの様々な手法をヴァン・ダイク・パークスから初めて学んだと言っていいでしょう。そして、アメリカン・ミュージックの底の深さ・層の厚さを、ヴァン・ダイク・パークスを通じて強烈に体験しました。後になって4人は、それぞれ別個に、ヴァン・ダイク・パークスから得たものをレコードとして具現化しています。
 細野晴臣は『HOSONO HOUSE』で、アメリカン・ミュージックやハリウッドのスタイルを細野流に総点検しました。これもヴァン・ダイク・パークスからの影響が強く現れているでしょう。大瀧詠一も『ナイアガラ・ムーン』でヴァン・ダイク・パークスに対する一種の“アンサー”を示しました。このアルバムは、アメリカン・ミュージックの深層に触れようとする試みであったと思えます。鈴木茂の“ヴァン・ダイク体験”の仕方は実にプレイヤーらしい。彼は、その後再び渡米して、デビュー・アルバム『バンド・ワゴン』を製作しました。『HAPPY END』のレコーディングにも協力したローウェル・ジョージのリトル・フィートが、『バンド・ワゴン』では全面的にバック・アップをつとめています。松本隆は、ヴァン・ダイク・パークスのプロデュースやアレンジメントの手法を、南佳孝のデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』やあがた森魚のセカンド・アルバム『噫 無情』のプロデュースの際に利用しています。
 いずれにせよ、ヴァン・ダイク・パークスに接したはっぴいえんどのこのアメリカ体験は、その後の4人の活動を語るうえで、欠かせないものとなりました。
アメリカから帰国したはっぴいえんどは、アメリカ行きが事実上の“再結成”であったため、再び分解状態となって、’72年12月31日をもって正式に解散しました。同年11月22日に、1回だけ“はっぴいえんど”としてステージに立っていますが、このときは松本隆が欠席、林立夫がドラムを担当しています。はっぴいえんど在籍中に製作された大瀧詠一のデビュー・アルバム『大瀧詠一』がリリースされたのは、このステージから3日後の11月25日のことでした。
 ‘73年に入って、『HAPPYEND』がリリースされますが(2月25日)、細野晴臣は1月頃からソロ・アルバムの準備に入り、狭山の自宅に録音機材一式を持ち込んで『HOSONO HOUSE』(’73年5月発売)をレコーディングします。このときのセッション・メンバー、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人が意気投合、新しいグループ“キャラメル・ママ”が結成されました。キャラメル・ママはこの年、吉田美奈子『扉の冬』、荒井由美『ひこうき雲』などのサウンド・プロデュースを成功させています。松本隆は“ムーンライダーズ”というグループを結成する一方、作詞家兼プロデューサーとして再スタート、皆に佳孝という逸材を発掘して風都市の専属アーティストとし、アルバム『摩天楼のヒロイン』(’73年9月発売)を製作します。大瀧詠一は福生に自宅を構えて、関西系のロック・バンド“ごまのはえ”(その後“ココナツ・パンク”と改称)などと交流、旧友布谷文夫のソロ・アルバム『悲しき夏バテ』(’73年11月発売)のプロデュースを引き受け、ごまのはえをバック・バンドに起用して’73年夏頃よりレコーディングに入っています。ごまのはえの伊藤銀次が当時シュガー・ベイブの山下達郎を“発見”して大瀧に紹介したのもこの頃です。
 ‘73年9月21日、はっぴいえんどの解散コンサート『CITY―LAST TIME AROUND』(於・文京公会堂)が催されました。これは“解散コンサート”と銘打ちながらも、実態は“再結成コンサート”であり、風都市グループのアーティストたちの顔見世興行的な性格が強いものでしたが、はっぴいえんどファンにしてみれば、やはり「解散」コンサートであり、「解散」を惜しむ一方で「再スタート」を祝うイベントとなりました。
 出演ははっぴいえんど(ピアノで鈴木慶一がサポート)のほか、キャラメル・ママ、ムーン・ライダース、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝、布谷文夫、ココナツ・パンク、大瀧詠一withココナツ・パンク+シュガー・ベイブ+ベイブ・シンガーズ・スリーで、まさに時代の節目を象徴するような、豪華絢爛な顔ぶれでした。
 この夜、「はっぴいえんど」の時代は幕を下ろしました。しかし、はっぴいえんどの日本のポピュラー音楽界、ロック界にもたらしたほんとうの“影響”はこの夜から始まり、メンバー4人それぞれの能力が正当に評価を受けるのもこの夜以降のことでした。

 ということで、六回に渡って「はっぴいえんど」の歴史を追ってみましたが、そもそもなぜ今はっぴいえんどについて書こうと思い立ったのかといえば、偶然白夜書房の「日本ロック大全」を目にする機会があり、全部面白いのですが、はっぴいえんどの部分が、自分も知らなかったことが多く、すごく面白かったので、おすそ分けという感覚で、この日本ロック大全を底本とし、そこに個人的な思い入れなどを挿入していく形で今回までやってきました。
 もしまだ一度もはっぴいえんどを聴いたことがないという人が、ちょっと聴いてみようかな、という気持ちになってもらえたら、とてもうれしいです。また、もう数千回は聴いているよ、というディープでコアな方々にも、改めてその素晴らしさ、格好良さを再確認することができれば…と思います。

 終わりに。先日、松本隆がインタビューを受けている、90年代の動画を見ました。彼は当時と全く変わらないあの口の周りでつぶやくようなしゃべり方で、こんなことを言っていました。
「僕らはあの時、“今後十年は絶対に誰にも追いつけないものを作ってやろう”っていう思いで作っていたけれど、見てみたら、どうやら、二十年経っても、まだ追い越す人が現れないみたいだね」
 こんなところにも、はっぴいえんどの、時代の先駆者、日本語のロックの開拓者としての矜持が感じられるのではないでしょうか。かっこいい!

おわり<ナカムラ>
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# by beatken | 2009-05-31 02:22 | review
2009年 04月 24日
はっぴいえんど(5)
c0075476_15221659.jpg 『風街ろまん』についてもう少し。
 このアルバムでは、従来もっぱらギタリストとして活躍していた鈴木茂が、ヴォーカリスト・作曲家して、後にシングルカットされる「花いちもんめ」でデビューするという「事件」がありました。男のファンの多い武骨なはっぴいえんどに、ごくわずかながら存在した女性ファンは、このちょっと頼りなげな、でも若々しく繊細な声と容貌に魅了されたのでした。個人的にも、この「花いちもんめ」は伸びやかで、歌詞のイメージも、鮮烈な放物線を描きながら心に吸い込まれてくるようで、何度聴いてもまた新しい気持ちで聴くことのできる佳曲であると思います。
 『風街ろまん』の一般的評価は、細野サウンドの“フォーク化”ばかりがことさらに強調され、必ずしも『はっぴいえんど』よりも高くはありませんでした。一方、URC系のアーティストやそのファンからは、洗練されたアコースティック・サウンドとして高い評価を得ました。しかし、『風街ろまん』はどう考えてもロック・アルバムとしかいい様がありません。サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジェイムズ・テイラーなどが、イギリス、アメリカの「ロック」に与えた影響は計り知れないものであったにも関わらず、こと日本で彼らの影響を受けたというと、たちまち“フォーク”の烙印を押され、嘲笑される。そんなムードが当時の日本にはあったようです。『風街ろまん』において、細野、大瀧を横糸として松本が編み上げた都市論こそ、彼らが意図した「日本語のロック」であり、その音がたとえウエスト・コーストの色彩を帯びていることが確かだとしても、「風をあつめて」などの細野作品を取り上げて「そら見たことか、やっぱりフォークだ」と鬼の首を取ったように批判するのはとんだお門違いといわざるを得ません。むしろこのアルバムは、いわゆる「はっぴいえんどサウンド=日本語のロック」という点で、これ以上ないほど緻密な完成度を誇っているといえます。
 一方で、「自分の曲は自分で製作する」という録音スタイルは、はっぴいえんど解散に至る一つの道筋を示してもいたのでした。

 71年度の彼らの業績の二番目として挙げたのは、そのスタジオ・ワークの豊富さです。
はっぴいえんどのメンバーが参加した主なレコードを見ると、
 高田渡『ごあいさつ』(キング)
 加川良『教訓』(URC)
 金延幸子『時にまかせて』(ビクター、名盤!!)
 南正人『回帰線』(RCAビクター)
 小坂忠『ありがとう』(コロムビア/マッシュルーム)
 遠藤賢司『満足できるかな』(ポリドール)
 ザ・ディランⅡ『男らしいってわかるかい』(URC)

などが挙げられます。この年メジャー・デビューした高田渡、遠藤賢司、金延幸子がURC系のミュージシャンであったことから、はっぴいえんどがURC系のアーティストに肩入れしていたことが窺われます。南正人と小坂忠は細野の旧来の友人ということもあり、その関係からでしょう。
 URC系を中心とするはっぴいえんどのこうしたバックアップは、はっぴいえんどとフォークとの結びつきを強く印象付け、彼らのロック界での評価にネガティブな影響を与えましたが、そもそもこうしたスタジオ・ワークは、ディレクターとアーティスト側の要請があって始めて成立するものであり、個々の作品だけを見て一方的な判断を下してしまうのは浅はかな態度なのではないかと思います。特に細野や鈴木の演奏テクニックはずば抜けて高く、彼らがバックアップするだけで、ギター一本の原曲のイメージが一変してしまうような魔法の力を持っていました。彼らにしても、そうしたフォーク系のミュージシャン達から受ける影響も大きかったでしょうし、何か「新しいもの」を模索しているという点では、ロックもフォークも同じ立ち位置にいたのだと思います。特に、大瀧にとっての初プロデュースとなる金延幸子の『時にまかせて』の、ごくごく淡い中に、彼女の清新な声の伸び、静謐さ、柔らかさを存分に引き出す手腕は、ため息の出るほど美しく、何か敬虔なものをすら感じてしまいます。
 72年以降も、はっぴいえんどのメンバーによるこうしたスタジオ・ワークはますます盛んになり、フォークばかりでなくミッキー・カーチス、布谷文夫といったロック・アーティストからジャズシンガー笠井紀美子のレコーディングまで、幅広い活躍を見せます。中心となっていたのは主に細野と鈴木で、二人の活動はやがてキャラメル・ママ/ティン・パン・アレーへと繋がっていきます。こうした「はっぴいえんど関連盤」を掘り下げていくのは、ファンにとって息の長い楽しみの一つでしょう。
 
 71年のはっぴいえんどの業績としてもう一つ挙げたのは、彼らの音楽活動を支える事務所“風都市”の設立です。この年の1月21日をもって岡林信康のバック・バンドを退いたはっぴいえんどは、従来の事務所である音楽舎に対して距離を置き始め、レコード会社こそURCでしたが、自分たちの音楽活動をより容易にするために独自のオフィス“風都市”を設立(4月頃)します。これはおそらくマネージメント担当の石浦信三らの発案によるもので、“風都市”というネーミングは、松本がセカンド・アルバム用に用意したタイトルを“借り出した”ものでした。そのため、セカンド・アルバムのタイトルが『風街ろまん』になるのです。
 “風都市”を実質的に仕切ったのは、はっぴいえんどのメンバーではなく、石浦信三を初めとする数人の人間でしたが、その活動は、はっぴいえんどとその周辺のアーティスト(はちみつぱい、ぱふ<吉田美奈子のグループ>、DEW<布谷文夫のグループ>など)の表現の場の確保と、ギャランティー関係、マネージメント業務を目標としていました。
 風都市の最初の活動は、東京は渋谷百軒店にオープン(4月28日)した“BYG”というライヴ・スポットのブッキングでした。“BYG”は、当時東京では数少ないロックを聴かせる店で、昼間は1、2階でレコード、夜は地下でライヴというシステムをとっていました。ライヴのブッキングが全面的に風都市に任されたため、その出し物は異色で、はっぴいえんどをはじめ、あがた森魚、はちみつぱい、ぱふ、DEW、乱魔堂、小坂忠などが“メニュー”の中心でした。なんというメンツでしょうか…!!また、風都市は各地で開催されるコンサートやイヴェントにも積極的に関与していきました。
 72年春頃までBYGのブッキングを担当していた風都市でしたが、BYGのライヴが中止になったことに伴い、同店から手を引き、今度は株式会社組織に改組、事務所も六本木から市ヶ谷に移転して再出発します。正確には、ウィンド・コーポレイション(プロモーション業務)とシティ・ミュージック(音楽出版業務)のふたつの会社を興し、アメリカ的なプロダクション・システムの確立を目標に活動します。
 特にシティ・ミュージックは、はっぴいえんど正式解散の年、’73年まで精力的な事業活動を行い、南佳孝『摩天楼のヒロイン』(プロデュース・松本隆)、吉田美奈子『冬の扉』(プロデュース・キャラメル・ママ)の二枚のLPを、トリオ・レコードのショーボート・レーベルからリリース、原版製作会社としてのポジションを獲得しようとしますが、セールス的には失敗、シティ・ミュージックの活動は73年一杯で終止符を打ちます。しかし、風都市―ウィンド・コーポレイション/シティ・ミュージックの音楽産業全体に及ぼした影響は大きく、その後の日本の音楽産業は彼らの目標としたプロダクション・システムへと指向していくことになるのです。はっぴいえんどとその周辺のアーティストたちのための、音楽制作環境の構築を主眼として活動するその過程を通じて、日本の音楽産業の構造を改革するひとつのきっかけにもなったのでした。例えばベルウッド・レコードの設立のような、レコード製作者の側から、新しいアーティストたちの表現の場を確保しようとした試みなどは、風都市の活動と呼応するように行われていました。
 
4.終りの始まり

 『風街ろまん』以後のはっぴいえんどは、バンドとしてのまとまりをしだいに失っていきました。アルバムのクレジットを見ても分かる通り、作曲者が各自各作をプロデュースするスタイルが採られていたので、バンドとしてのサウンドを目指しながらも、結果的に『風街ろまん』には、各メンバーの個性が強く前面に現れることになりました。
 すでにアルバムの製作時点で、細野、大瀧はもちろん、鈴木もソロ・アーティストとしての才能を十分に発揮していたのであり、松本も作詞家としての才能を開花させていました。言ってみれば、はっぴいえんどの、バンドとしての最高点は『はっぴいえんど』であり、『風街ろまん』では、さながらビートルズの『ホワイト・アルバム』の如く、メンバーが各々の個性を「はっぴいえんど」という媒体を通じて表現していったという見方ができるでしょう。『風街ろまん』以後、バンドとしてのはっぴいえんどの存在意義がしだいに希薄なものになっていくのは当然の成り行きだったかも知れません。
 はっぴいえんどのバンドとしてのアイデンティティーを失わせるきっかけとなったのは、大瀧詠一のソロ・アルバム製作でした。細野、鈴木両氏はバンド以外にもスタジオ・ミュージシャンとしての仕事があり、他のアーティストと関わる機会もあったわけですが、楽器演奏のテクニックのない大瀧や、ドラマーとしては評価のあまり高くなかった松本にしてみれば、スタジオで日銭を稼ぐわけにはいかず、作品で勝負するほかありませんでした。そこで、大瀧はベルウッドから持ち込まれたソロ・アルバム製作の話に乗るのですが、このことで、他のメンバーとの間に微妙な軋轢が生じたことも事実でした。
 大瀧のソロ・レコーディングは、71年10月に始められました。10月6日に『風街ろまん』のミックス・ダウンが終わって、三日後にはまずシングル「恋の汽車ポッポ/それはぼくじゃないよ」のレコーディング、『風街ろまん』の発売が11月であったのに対し、大瀧のシングルの発売は12月でした。自分達だって十分ソロでやっていけるのに、大瀧に先を越された形の他のメンバーは、当然あまり面白くなかったんじゃないか、と思われます。その後、大瀧ははっぴいえんどのメンバーとしてステージを務める一方、72年3月よりアルバム製作に入り、『風街ろまん』からちょうど一年経った72年11月にソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースします。
この間、はっぴいえんどには一時、ベーシストとして野地義行(第1期ブルース・クリエイション、ぱふなどで活躍)が参加していました。これは、細野がキーボードに専念してステージでのサウンドに厚みを出すためでしたが、実際には72年4月から同年夏頃までの間のことで、野地ははっぴいえんどのメンバーとしての作品は残していません。わずかに、大瀧のソロ・デビュー・アルバムの「五月雨」でベースを演奏したクレジットが残っているばかりです。
大瀧のソロ・アルバム製作の過程では、はっぴいえんどの他のメンバーも全面的に協力していますが、むべなるかな、細野、鈴木はそれほど積極的なわけではなかったようです。特に細野はこの時点ですでにはっぴいえんどとしての活動に限界を見ていました。大瀧にしても、はっぴいえんどに対する帰属意識は強かったものの、ソロ・アルバム製作をきっかけに、バンド内における自分の位置を維持することが難しくなってきており、細野、大瀧、ともに、この時点ではっぴいえんどの解散を決意していたと思われます。つまり、実質的な解散は72年夏には決まり、あとはすでにブッキングされていたコンサート・ツアーを消化するだけでした。
しかし、同じ頃、精神的にはもうばらばらになっていた四人を、なんとかもう一度だけまとめ上げようとした人物がいます。
それは、ベルウッドの三浦光紀でした。彼は、なんとかあと一枚、はっぴいえんどのアルバムを残したいと、四人にひとつの提案をします。
ロサンゼルスでの録音です。ここから、さながら『アビイ・ロード』のような、はっぴいえんどの最後の輝きがきらめくことになります。

続く。
<ナカムラ>
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# by beatken | 2009-04-24 15:22 | review
2009年 04月 04日
はっぴいえんど(4)
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3.日本語とロックと五人目のはっぴいえんど

 はっぴいえんどの「日本語のロック」というコンセプトは、『はっぴいえんど』でほぼ実現されたと言われています。何事も、端緒をつけるパイオニア達には様々な暗中模索が課され、そのサウンドや歌詞にはまだ若干の生硬さが感じられるものの、松本・大瀧のタッグが創り上げた数々の名曲の中には、確かに日本語でしか表現できない(「春よ来い」「12月の雨の朝」など)ものが存在しており、演奏技術、アレンジの点においても当時の日本の最高技術レベルであった事は間違いなく、このアルバム以降、日本のロックが「日本語」を意識していく事になるのです。
 ここで、特筆すべき一つの論争があります。「日本語のロック論争」と呼ばれるもので、発端は、70年8月3日、『新宿プレイマップ』10月号のための座談会で、出席者の一人である内田裕也が、大滝に対し「日本語はロックに乗らない」という批判を浴びせた事に始まります。この論争はファンをも巻き込んで翌年まで持ち込まれ、再びNMM(ニュー・ミュージック・マガジン)誌5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」における座談会(福田一郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、大瀧詠一、松本隆、折田育造、中村とうよう、小倉エージ)にて論議されています。一連の論争から、内田裕也を代表とする「アンチ・日本語ロック」側の意見をまとめてみると、

①日本語はロック・ビートに乗らない。あるいは乗りにくい。
② 海外で成功するには英語でなければならない。
③ URC系の作品が不当に高く評価される理由が分からない。

の三点に集約されるようです。中でも③が、最も強調されていました。①、②に関しては、それが当然であることは誰の目にも明らかであり、しかし、考えてみると、海外ミュージシャンのオリジナル英語詞を、正確な発音で歌えるようなアーティストは、当時ほとんど存在していなかった事もまた事実であり(現在は随分とその辺りが進歩したように見受けられますが)、つまりは、はっぴいえんど側における、「輸入品のロックを日本的風土のなかで定着させる」試みと、内田裕也側における「輸入品は輸入品として、正確にコピーしよう」という方向性の対立といえます。もっと言えば単に内田裕也がURCを好きじゃなかったんでしょう。暗いとか言って。まあ人それぞれ色々な評価があります。絶対的な評価を万人から受けるものなどこの世に存在しないのです。
 はっぴいえんど自身、ステージでのレパートリーは日本語にこだわらず、バッファロー・スプリングスティーン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを演り、日本語詞についてもボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルなどの影響を色濃く受けています。いずれにしても、はっぴいえんど側は論争に積極的ではなく、もっぱら反対側からのふっかけだったという話です。
 さて、はっぴいえんどのライブ・パフォーマンスですが、アルバムの完成度の高さとは打って変わって、悪評高いものであったことは否定できません。これは、アルバムの多重録音を、四人だけで完全に再現する事が技術的に不可能であったこともありますが、何より彼らは、個々の技術は高いものの「練習嫌い」で有名であり、そのための凡ミスも多く、それは以前部室で、はっぴいえんどのライブ盤に合わせてベースを弾いていた某氏が、「これ半音ずれてる。チューニング狂ってるよ、ほら」といって弾いて聴かせてくれたことからも立証されているでしょう。大瀧詠一のヴォーカルとバックの演奏のキーが合っていない、なんてこともあったようです。また、細野は自分が歌うのをあまり好まず、細野のレパートリーも大滝が歌っていたことなども、原因の一つだと言えるかもしれません。とはいえ、すべてのライブがひどかったというわけではもちろんないことは、当然言っておかならないでしょう。
 デビュー初年の70年について、もうひとつ触れておかなければならない人物がいます。「五人目のはっぴいえんど」石浦信三です。坂本竜馬における中岡慎太郎のような存在だと言えばもっと分かりにくくなるでしょうか。
 石浦信三は、松本隆の小学校5年以来の友人で、松本がはっぴいえんどを結成する頃から、アドバイザーとしてこれに関わり(当時慶応大学在学中)、すでに『はっぴいえんど』のコンセプト・ワークの段階から、はっぴいえんどの方向性を補強する理論的・精神的支柱の役割を果たし、「日本語のロック」に対する攻撃から身をかわすための戦略さえ提供したと言われていますが、しだいにマネージメント的な仕事も引き受けるようになります。この石浦の存在が、翌71年以降のはっぴいえんどの音楽活動および日本のロック界の動向に少なからぬ影響を与える事になります。
 71年のはっぴいえんどは、三つの業績を残しました。セカンド・アルバム「風街ろまん」の製作、URC系のアーティストを中心とした数多くのスタジオ・ワークをこなし、ミュージカル・ディレクターとしての地位を確立し始めた事、そして、単なるマネージメント・オフィスを超えたミュージシャン・アーティスト仲間の統一体「風都市」を設立したことです。
 はっぴいえんどの音楽性は、松本・細野の強力なコンセプトに従って、優れた作曲家、ヴォーカリストである大瀧詠一、天才ギター少年鈴木茂がその才能を爆発させるという形で発展してきたものであり、それだけに、船頭多くして船沈むのたとえではありませんが、四人が全く同じ方向を向いて活動できる期間には、おのずと限りがありました。個人が自分達の独自性を主張して対立し始めるのは時間の問題でした。しかし、「日本語のロック」という原則だけは、四人が等しく共有するものでした。と、なれば、最も重要になってくるのは松本隆の書く日本語詞ということになり、松本はその期待に見事応えるのでした。それが、かの名盤「風街ろまん」です。
 
 アルバム『風街ろまん』(71年11月発売)について
・ 60年代末期的な、いわゆる『ガロ』誌の世界観から決別し、70年代の都市の再生と復権を多彩に表現しようとしている。

・ その詞に注目すれば、前作『はっぴいえんど』に比べてはるかに洗練されていて、言葉自体にリズム感があふれていた。「風」と「街」を主旋律としたその表現の構造は、建築家であり詩人である渡辺武信の影響を受けている。が、その「言葉たち」が、細野、大瀧、鈴木の表現力と幸せな結合をしたとき、すがすがしい緊張感と、都会を通り抜ける颯爽とした風のような珠玉の楽曲群となった。

・71年四月中旬から始まった延べ、約六ヶ月間という、当時としては異常な長さのレコーディング。二百数十万円といわれるスタジオ・レンタル料も破格だった。前作の高評価を受け、はっぴいえんど主体でレコーディングは進められた。ミキサーに、アメリカから帰国した直後の、精気と才気に溢れる吉野金次、ビクター所属の梅津達男(会社の関係でクレジットは近藤武蔵)、さらにキングのハウス・ミキサーだった山崎聖次の三人を配し、A&Rマン(アーティスト・アンド・レパートリーの略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する)的なディレクターをミュージシャンでもあった岩井宏(アート音楽出版)が担当、キングの三浦光紀(のちのベルウッド・レコード創設者)の協力を仰ぎながら、石浦達三(風都市)のマネージメントのもとで、レコーディングは進められた。

・ 代表曲としては「はいからはくち」(松本・大瀧)「風をあつめて」(松本・細野)などがある。「はいからはくち」は、“ハイカラ白痴”と“肺から吐く血”を意識的にダブらせた「はいからはくち」は、日本・東京文化圏の重層的な構造を、松本隆がアイロニカルに表現した作品。“ハイカラ”という死語の再生、日本語的な“音韻”へのこだわり、松本隆は言葉の持つエネルギーを、この「はいからはくち」で引き出そうとして成功している。その詞が、大瀧詠一の持つ、ロックンロールへの深い造詣によって裏打ちされ、ロックの持つ毒がリアルに体験できるイカシた一曲となっている。「風をあつめて」はファースト・アルバムの細野作品からは意外とも思えるアコースティックな作品。当時細野が影響を受けていたといわれるジェイムズ・テイラーの雰囲気を感じさせる。「歌う」ということに恥じらいと抵抗の見えた以前とは異なり、彼は小坂忠のアルバム「ありがとう」(71年10月発売)の製作に関与する過程で、低音で素朴に表現する歌唱法に開眼し、「風をあつめて」でそれを結実させた。松本の詞が極めて視覚的、鮮やかなイメージを伴う完成度の高いもので、東京の都市、風景がもつ匂いを「です、ます」という日常的な語尾で表現している。これはそれまでの音楽を見てもあまりみられない新鮮なものであった。ちなみに、はっぴいえんどは今まで一度もこの「風をあつめて」をライブで完璧に演奏できた事がない、と聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、レコーディングの際、全てを通しで弾くのではなく、一小節ずつパンチ録音していったという噂もあるくらいなので、本当かもしれない。

続く。
<ナカムラ>
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# by beatken | 2009-04-04 17:13 | review
2009年 01月 23日
はっぴいえんど(3)
c0075476_2352398.jpgいつ果てるともしれぬはっぴいえんどの旅路。さて続きといきましょう。
ヴァレンタイン・ブルーの初ライブは1969年10月28日でしたが、これはあまりうまくいかなかった模様。しかし、チャンスはどこに転がっているかわかりません。11月23日、細野と大瀧というとんでもないデュオがステージに立ちます。代々木区民会館の「フォーク」コンサートです。フォークと冠されている以上、無論エレキギターやベースを抱えることはできないため、細野のフォークギター一本という潔いスタイル。今こんなステージを観ることはおそらく不可能に近いと思われ、会場にいた人がうらやましい限り。時代のなせる業でしょう。ここで、細野、大瀧のオリジナル、ジョニ・ミッチェルの「チェルシー・モーニング(あんな音域の広い歌をどうやって…!)」の三曲を歌っています。この時聴衆の中にいたのがURCのディレクター小倉栄司、現在でもよく音楽雑誌やアルバムのライナーノートでお目にかかりますね、「小倉エージ」と書けばピンとくる人もいるんじゃないでしょうか。同じくURC関係の元ジャックス・早川義夫もいたそうです。
エイプリルフールの頃から細野に強い興味を持っていた小倉は、コンサート終了後ふたりにレコーディングの話を持ちかけます。ふたりともURC?なにそれコーヒー?みたいな状態だったらしいですが、レコーディングの話をされて気を悪くするミュージシャンはいません。
ここで、細野、大瀧両氏のようにURCとはなんぞやと疑問を持った方々に説明すると、URCレコードとは、「受験生ブルース」などで有名なフォーク歌手、高石友也の音楽事務所を母体とした、非営利的側面の強い音楽事務所「音楽舎」の会員制レコード頒布組織「アンダーグラウンド・フォーク・クラブ」が発展してできたものです。主に反戦フォーク、とりわけ関西系フォークの牙城といったイメージが強く、岡林信康、高田渡、中川五郎、五つの赤い風船などが所属し、何だかんだで結構うまいこと商業ベースに乗っかっていました。高石友也は、歌手としてはもちろん、実業家としての手腕があったのでしょう。
翌70年1月16日、ヴァレンタイン・ブルーのレコーディングは正式に決定されます。小倉は、ヴァレンタイン・ブルーを、当時飛ぶ鳥をガンガン落としまくっていたフォーク界の寵児、岡林信康のバックバンドへと据え(ちょうど彼がボブ・ディランのようにエレキに転向しようとしていた時期でした)、そのキャリアを通じてヴァレンタイン・ブルーをプロモートしていくという意図があり、実際に岡林本人から要請がありました。
細野は最初渋ったものの、非常にしたたかな野望を持ってこれを承諾します。それは「演奏技術の向上」と「経済的保障」です。なんと岡林信康をダシに使って、ちゃっかりステージ経験を積み、ついでにマネーも稼いじゃお、というのです。このくらいのがめつさ(情熱という美しい言い方もあるにはありますけども)がないと、この世界でやっていくのは難しいということなのでしょうか。思い出してみれば、細野が立教大学の学生だった時分に、「エイプリルフール」に参加したのも「給料が出るから」であったことを鑑みれば、これは当然の選択だったと言えるかもしれません。
この選択は、実際にヴァレンタイン・ブルー(はっぴいえんど)の将来に良い影響をもたらしました。岡林信康のバックで演奏する彼らはまさに、ボブ・ディランにおけるザ・バンドと言ってよく、一気にその知名度を上げる効果があったことは間違いありません(マイナーシーンではありましたが)。と同時に、後々まで「あ、岡林の後ろのひとね」と、名前を覚えてもらえず「あのメガネ」などと呼ばれてしまう人と同じ宿命をも背負うことになりました。“演奏に徹する職人”といったイメージが強く、彼らの特異な創造性に耳目が集まらないという現象がそれです。

この年、2月から3月にかけて、特筆すべき出来事があります。
はっぴいえんどのファーストアルバム「はっぴいえんど」には、ずばり「はっぴいえんど」という名の曲があり、細野はそれにインスピレーションを受けてバンド名を「はっぴいえんど」に変更したのです。さて、この一文に「はっぴいえんど」は何度使われたでしょうか。
当初は「ハッピーエンド」と片仮名表記だったものを、70年8月のファーストアルバム発表時に平仮名表記を採用しています。70年6月発売の岡林信康「見る前に跳べ」のクレジットでは、まだ「ハッピーエンド」のままなのだそうです。アルバムをお持ちの方はブックレットをチェックしてみるのも楽しいですね。
バックバンドの初仕事は遠藤賢司だったなんてトリビアを挟みながらも、3月18日、いよいよはっぴいえんどの初レコーディングが始まります。ディレクターは早川義夫。

が、しかし。

この日の演奏は、完膚なきまでにガッタガタのボンニョボニョでした。
何が原因かはよく分かりません。何か悪いものでも食ったのでしょう。グレーゾーンな生ガキとか。或いは夜に爪でも切ったのでしょうか。ともかく、この日のサウンドは、ミキサーの吉田保(吉田美奈子の実兄)が憤慨して帰ってしまったという伝説が残っているほどのひどさでした。そこまで言われると、一回聴いてみたくなるのが人間のフシギなところですね。ディレクターとミキサーは、両方ともレコーディングを降りてしまいます。満を持してはっぴいえんどを連れて来た小倉栄司の心中やいかに!
と、いうわけで、先に岡林の「見る前に跳べ」のレコーディングが先行されることになりました。自分たちの失敗もどこへやら、このレコーディングは、完全にはっぴいえんど主導で進んでいきました。すごく緊張感のあったレコーディングのようで、後に岡林は、

「何か言ったら殴られると思った」

と、ラモーンズにビビるジョニー・ロットンのようなセリフを残しています。
さてその後、延期されていたはっぴいえんどのレコーディングが4月9日に再開されます。ディレクターの椅子には小倉栄司が座り、当時の日本の水準から見れば革新的な音づくりが始まりました。レコーディングは9日から13日の早朝まで続き、鈴木茂の「やあ、すがやかな天気だなあ」の名台詞(「すがすがしい」と「さわやか」がフュージョンしたらしい)のもと、アルバムは完成しました。残っていた「見る前に跳べ」のレコーディングが終わると、岡林のバックバンドとしての初仕事、渋谷公会堂「岡林信康壮行会」をむかえます。しかし何でしょう、この高校総体を彷彿とさせるネーミングは…。はっぴいえんどはこの後、翌年の1月まで、岡林のバックバンドとしての職務を果たします。これは、はっぴいえんどに知名度と、経済的な保障を与えた一方、聴き手が岡林とはっぴいえんどを同一視するという弊害も生まれてしまいました。

ファーストアルバム「はっぴいえんど」について。
発売:1970年8月5日 URCレコード
・通称ゆでめん。アルバムのジャケットを見れば、その理由は一目瞭然。
・全曲とも、日本語詞である。当時はこれが画期的だった。しかも、とりあえず日本語を乗せてみました、といった体のものでなく、詩情に富んでいる。松本隆の才能に負うところが大きい。
・楽曲の構造・構成が非常に緻密である。はっぴいえんどはよく、バッファロー・スプリングフィールドとモビー・グレイプを足して二で割った、等の評価をされるが、表面的なコピーではなく、深く自らで消化し、新たな発明をふんだんに用いた音になっている。
・楽器、音楽理論に精通していた。はっぴいえんどのメンバーは、多様な楽器を用いて、それらの楽器の特性を十分に引き出すような、効果的な使用をしている。特にパーカッション類の扱いにはかなり熟達していたものとみられる。
・アルバム・デザインに表れたトータリティ。サウンドとジャケットのデザイン が、ひとつのテーマを持って訴求してくる。林静一のジャケット・ワークは今見ても秀逸。バッファロー・スプリングフィールドの「アゲイン」にヒントを得「スペシャルサンクス」を付随させ、はっぴいえんどを理解する上で重要なカギとなるアーティスト、詩人の名を列挙している。これらを見たり読んだりすれば、ある程度はっぴいんどがいかなるバンドなのかを把握することができる。余談だが、音楽配信華やかりし現在、いかにして、このようなトータリティを表現させるのか、興味深い点である。

この一枚のアルバムをもって、日本語ロックの地平は開けてゆきます。

続く                                            
<ナカムラ>
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# by beatken | 2009-01-23 22:58 | review
2008年 12月 31日
大晦日だよ、集まれる人だけ集合!
一年が24時間を切ると、別にジャック・バウアーじゃなくても意味なく崖っぷちみたいな気分がしてきませんか。そうでもないですか。

今年はどんな一年だったでしょうか。いろいろありましたねー、安馬が大関になったりとか。大きな節目の年だった人も、気がついたら何となく東京ドームでジャニーズとカウントダウンしている自分がいた、という時空を越えし者達も、ひとまずお疲れさんでした。うるう年の関係で、正月返上、8時59分60秒を作ったりしなきゃならん人達もいますが、ゆっくりできる人たちは、せっかくなので目いっぱい浮かれて過ごしましょう。羽目を外す、無礼講、欽ちゃんの仮装大賞…これらはすべてお正月のためにある言葉です。ただし、小学生の時お年玉が10万を越えたことがある奴はこの限りではありません。今すぐ猿股ひとつで華厳の滝に打たれなければいけません。近くに手頃な滝がないよ、という人はスカイフィッシュでも捕まえてきてください。

実際、これを読んでいる人がいかほど存在するのか俺は知りませんが、ありがとう!一年間ありがとう!そして言っておかなきゃいけないことがあります(「未成年の主張」風に)。

三年七組の…
俺はオービーなんで、現在のビート研の細かい情報は何一つ知らんのです。ブログ占拠してるお前は一体誰なんだと。学生会館E1117に入ったらボンゴを机代わりにして部誌に四コマでも描いてんのかと。いいえ、そういうことはありません。むしろカードキーがなくて強制門前払いを喰らい、せっかく下のセブンで買ってきたコカコーラゼロとキャベツ太郎およびアメリカンドックを内包したビニル袋を持つ指が食い込んでやるせない方です。一部実話を基にお送りしております。

だから来年も現れるか、それは未知数です。
そんなこと言って来年もちゃっかり更新するんでしょ?とお思いのあなた。エスパーの才能があります。まぁ、徐々に開放していって、よりオープンなビート研ブログになったらいいんじゃないかなと思います。せっかくブログがあるのに、開店休業というのも寂しいなと、誰に頼まれたわけでもなくやってきちゃったんですが、ブログ復興の狼煙にでもなれば幸いです。

今年の一枚のコーナー
はいみなさん、今年も行きましたか?どこへ?
中野へ。
レコミンツに行かないと、夜なかなか目が暗闇に慣れなかったり、朝起きると二限からのはずが十二時だったり、荻窪で手相を見る人にしつこく付きまとわれて駅前のブックオフに逃げ込んだりすることになるという噂も特にないですけれども、レコミンツ、ユニオン、ジャニス(お茶の水)辺りを徘徊していればビート研の誰かには必ず会えることでしょう。さて、今日の割引は何色の札かな?とか、あ、買取20%アップ券だ、借金にあえいで泣く泣く財産を手放すあの人にあげよう、とか考えるだけでウキウキとした気持ちになれるこれらのパワースポッツですが、今年はどんな出物がありやしたでしょうかね。紙ジャケ化の間隙を縫い旧プラジャケを狙うプラスチック・ハンターの皆様におかれましては、紙ジャケ再発ラッシュの昨今は笑いが止まらないんではなかろーかと思われます。さてさて年内に購入した全音源の中で、ベスト1を決める作業は、だれに打ち明けるでもなく、まったく自分のためだったりしますが、楽しいものです。個人的には、全然買う機会がなくなってしまって悲しい限り。ですが無理やり一位を決めるとすれば、意外につい先月のビートマス、ビートルズ+クリスマスソングの異色集団、があげられます。レコミンツPart3の店外、ワゴンでひっそり五枚500円…の中の一枚。つまり100円!でもいいものはいい。

始めた時にはこう、さらっと終わらせるつもりだったんだが…。
ではみなさん、来年もよろしくお願い致します。

<なかむら>
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# by beatken | 2008-12-31 02:41 | etc
2008年 12月 24日
メリークリスマス!
イブのほうが盛り上がるのはなぜ?
不思議な日本のクリスマス。「お仏壇のはせがわ」の店内にもこっそりツリーが飾ってありました。奥ゆかしい!

実際にはクリスマスが12月25日になったのは紀元四世紀くらいで、キリスト教以前の民間宗教であったミトラ教の影響が強く、また冬至の祭礼に関係しているという…ゴチャゴチャ言うのはやめにして、家に居る人もバイトの人も会社の人もその他もろもろ…メリークリスマス!イエスさん2008歳おめでとう。

こういう日に聴く音楽を。
ビートルズ唯一のクリスマスソング「Christmas Time(Is Here Again)

ザ・バンド必殺の名曲「Christmas Must Be Tonight

Our Little baby boy
Bring A People So Much Joy.

飲めない酒を、今日は少しだけ飲んでみます。「魔王」なんかどうだろ。
ずーーっとスティーライスパン「Below The Salt」をかけっぱなし。いいアルバムだ…!
ブリティッシュ・トラッドが好きな方はぜひ!
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# by beatken | 2008-12-24 17:42 | etc
2008年 12月 19日
「HAPPY XMAS (WAR IS OVER)/瀬戸内寂聴」
来たぜJyakutyo!
年も押し迫ってきたところにこれだ。完全に油断してた。やられたと思った。
以下MSNニュースより抜粋。

作家生活50年を迎えた瀬戸内寂聴さんが責任編集する雑誌『the寂聴』(角川学芸出版)が発刊された。
15日に刊行された第1号の特集は「萩原健一と歩く浄土」。
執行猶予期間を終えたショーケンを京都への旅に促し、人生の本当の価値、目的などについて語り合っている。

 オールカラー176ページ。1600円。第2号は来年1月に刊行し、3号以降は隔月発売。

歩いてしまうのである。どこを?浄土を。ショーケンと。
聞いただけでめまいがしてきそうな、ファンシーなパンチの効いた特集だと言えるだろう。
おそらく第二号は「知念里奈と歩くニライカナイ」とかそんなのになるのではないかと期待している。

この頃日本では、直球過ぎるタイトルを付けるのがトレンドらしい。

焼肉小倉優子」しかり

藤崎奈々子は豚骨ラーメン」しかり

炭火焼肉たむら」しかり…!年商6億だから許す。

でもまあ、今年はこんなもんで勘弁してもらえるだろうとちょっと思ってた、正直。

しかし…。

勘 違 い も い い と こ ろ で し た 。


『the寂聴』

インパクトしかない。タイトルで既に2万人くらいは浄土に送られている気がする。


<なかむら>
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# by beatken | 2008-12-19 12:23 | etc