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2009年 05月 31日
はっぴいえんど(6)
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 事実上「解散」状態となっていたはっぴいえんどを、もう一度だけまとめあげ、何とかアルバムを残しておきたいと考えていた三浦は、四人をそれぞれ説得する一方でシンコー・ミュージックに、ロサンゼルス録音の手配を依頼しました。ソロ・アルバム・レコーディング最中の大瀧にとっても、ソロ活動の準備に入りつつあった細野にとっても、アメリカ録音は等しく魅力的で、当初アメリカ行きに反対した松本も含めて4人揃って渡米することになりました。
 サンセット・スタジオ(ロサンゼルス)では、プロデューサーにヴァン・ダイク・パークスを迎えてレコーディングに入ります。ヴァン・ダイク・パークスは、’67年にアルバム『ソング・サイクル』できわめて高い評価を受けたアーティストで、リトル・フィートなどとも親交が厚く、プロデュースやアレンジにおいても豊かな才能を発揮していました。はっぴいえんどが渡米した’72年には、やはり名作の誉れ高い『ディスカヴァー・アメリカ』を発表、「東洋のロック・バンド」はっぴいえんどのプロデューサーとしては、うってつけの人物でした。
 スタジオ入りしたはっぴいえんどは、すでに解散直後“再結成”されたも同然のバンドで、当初メンバー間にはぎくしゃくとした空気が存在していましたが、レコーディングは滞りなく進められていきました。もっとも、大瀧はソロ・アルバム完パケの朝に飛行機に乗ってやってきたくらいで、当然作品の用意はなく、現地で急遽作曲、細野もはっぴいえんどのための作品は持ち合わせていなかったので、ソロ用に書いた曲を提供、鈴木だけが日本から松本作詞の作品を準備していました。
 はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』は、’72年10月13日から18日にかけてレコーディングされ、翌’73年2月25日にベルウッドから発売されました。このアルバムは、4人のアーティストのオムニバス・アルバムともいうべき作品で、はっぴいえんどの作品と呼ぶには少しはばかられるものがあります。はっぴいえんどの「ラスト」アルバムというよりも、細野、大瀧、鈴木、松本の新たなる出発を予告するアルバムだったといえます。
 しかしながら、同アルバムの最後に収録されている名曲「さよならアメリカ・さよならニッポン」は、紛れもなく“はっぴいいえんど”+ヴァン・ダイク・パークスの作品で、アメリカ文化圏と日本文化圏の狭間を泳ぎきろうとしたロック・バンド=はっぴいえんどの面目躍如、解散にふさわしい傑作であり、今日でもそのモチーフは色あせていません。
 この渡米録音の経験が、はっぴいえんどの4人にもたらした影響は少なくありませんでした。まず何といっても、自分達の音楽のルーツであるアメリカに初めて渡ったことから得た一種のカルチャー・ショック。そしてヴァン・ダイク・パークスという鬼才から学んだサウンド作りのスピリット、テクノロジーがありました。この影響は計り知れないものがあり、細野、大瀧、鈴木、松本の4人とも、システムとしてのプロデュース、テクノロジーとしてのプロデュース、スピリットとしてのプロデュース、さらにアレンジメントの様々な手法をヴァン・ダイク・パークスから初めて学んだと言っていいでしょう。そして、アメリカン・ミュージックの底の深さ・層の厚さを、ヴァン・ダイク・パークスを通じて強烈に体験しました。後になって4人は、それぞれ別個に、ヴァン・ダイク・パークスから得たものをレコードとして具現化しています。
 細野晴臣は『HOSONO HOUSE』で、アメリカン・ミュージックやハリウッドのスタイルを細野流に総点検しました。これもヴァン・ダイク・パークスからの影響が強く現れているでしょう。大瀧詠一も『ナイアガラ・ムーン』でヴァン・ダイク・パークスに対する一種の“アンサー”を示しました。このアルバムは、アメリカン・ミュージックの深層に触れようとする試みであったと思えます。鈴木茂の“ヴァン・ダイク体験”の仕方は実にプレイヤーらしい。彼は、その後再び渡米して、デビュー・アルバム『バンド・ワゴン』を製作しました。『HAPPY END』のレコーディングにも協力したローウェル・ジョージのリトル・フィートが、『バンド・ワゴン』では全面的にバック・アップをつとめています。松本隆は、ヴァン・ダイク・パークスのプロデュースやアレンジメントの手法を、南佳孝のデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』やあがた森魚のセカンド・アルバム『噫 無情』のプロデュースの際に利用しています。
 いずれにせよ、ヴァン・ダイク・パークスに接したはっぴいえんどのこのアメリカ体験は、その後の4人の活動を語るうえで、欠かせないものとなりました。
アメリカから帰国したはっぴいえんどは、アメリカ行きが事実上の“再結成”であったため、再び分解状態となって、’72年12月31日をもって正式に解散しました。同年11月22日に、1回だけ“はっぴいえんど”としてステージに立っていますが、このときは松本隆が欠席、林立夫がドラムを担当しています。はっぴいえんど在籍中に製作された大瀧詠一のデビュー・アルバム『大瀧詠一』がリリースされたのは、このステージから3日後の11月25日のことでした。
 ‘73年に入って、『HAPPYEND』がリリースされますが(2月25日)、細野晴臣は1月頃からソロ・アルバムの準備に入り、狭山の自宅に録音機材一式を持ち込んで『HOSONO HOUSE』(’73年5月発売)をレコーディングします。このときのセッション・メンバー、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人が意気投合、新しいグループ“キャラメル・ママ”が結成されました。キャラメル・ママはこの年、吉田美奈子『扉の冬』、荒井由美『ひこうき雲』などのサウンド・プロデュースを成功させています。松本隆は“ムーンライダーズ”というグループを結成する一方、作詞家兼プロデューサーとして再スタート、皆に佳孝という逸材を発掘して風都市の専属アーティストとし、アルバム『摩天楼のヒロイン』(’73年9月発売)を製作します。大瀧詠一は福生に自宅を構えて、関西系のロック・バンド“ごまのはえ”(その後“ココナツ・パンク”と改称)などと交流、旧友布谷文夫のソロ・アルバム『悲しき夏バテ』(’73年11月発売)のプロデュースを引き受け、ごまのはえをバック・バンドに起用して’73年夏頃よりレコーディングに入っています。ごまのはえの伊藤銀次が当時シュガー・ベイブの山下達郎を“発見”して大瀧に紹介したのもこの頃です。
 ‘73年9月21日、はっぴいえんどの解散コンサート『CITY―LAST TIME AROUND』(於・文京公会堂)が催されました。これは“解散コンサート”と銘打ちながらも、実態は“再結成コンサート”であり、風都市グループのアーティストたちの顔見世興行的な性格が強いものでしたが、はっぴいえんどファンにしてみれば、やはり「解散」コンサートであり、「解散」を惜しむ一方で「再スタート」を祝うイベントとなりました。
 出演ははっぴいえんど(ピアノで鈴木慶一がサポート)のほか、キャラメル・ママ、ムーン・ライダース、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝、布谷文夫、ココナツ・パンク、大瀧詠一withココナツ・パンク+シュガー・ベイブ+ベイブ・シンガーズ・スリーで、まさに時代の節目を象徴するような、豪華絢爛な顔ぶれでした。
 この夜、「はっぴいえんど」の時代は幕を下ろしました。しかし、はっぴいえんどの日本のポピュラー音楽界、ロック界にもたらしたほんとうの“影響”はこの夜から始まり、メンバー4人それぞれの能力が正当に評価を受けるのもこの夜以降のことでした。

 ということで、六回に渡って「はっぴいえんど」の歴史を追ってみましたが、そもそもなぜ今はっぴいえんどについて書こうと思い立ったのかといえば、偶然白夜書房の「日本ロック大全」を目にする機会があり、全部面白いのですが、はっぴいえんどの部分が、自分も知らなかったことが多く、すごく面白かったので、おすそ分けという感覚で、この日本ロック大全を底本とし、そこに個人的な思い入れなどを挿入していく形で今回までやってきました。
 もしまだ一度もはっぴいえんどを聴いたことがないという人が、ちょっと聴いてみようかな、という気持ちになってもらえたら、とてもうれしいです。また、もう数千回は聴いているよ、というディープでコアな方々にも、改めてその素晴らしさ、格好良さを再確認することができれば…と思います。

 終わりに。先日、松本隆がインタビューを受けている、90年代の動画を見ました。彼は当時と全く変わらないあの口の周りでつぶやくようなしゃべり方で、こんなことを言っていました。
「僕らはあの時、“今後十年は絶対に誰にも追いつけないものを作ってやろう”っていう思いで作っていたけれど、見てみたら、どうやら、二十年経っても、まだ追い越す人が現れないみたいだね」
 こんなところにも、はっぴいえんどの、時代の先駆者、日本語のロックの開拓者としての矜持が感じられるのではないでしょうか。かっこいい!

おわり<ナカムラ>
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by beatken | 2009-05-31 02:22 | review
2009年 04月 24日
はっぴいえんど(5)
c0075476_15221659.jpg 『風街ろまん』についてもう少し。
 このアルバムでは、従来もっぱらギタリストとして活躍していた鈴木茂が、ヴォーカリスト・作曲家して、後にシングルカットされる「花いちもんめ」でデビューするという「事件」がありました。男のファンの多い武骨なはっぴいえんどに、ごくわずかながら存在した女性ファンは、このちょっと頼りなげな、でも若々しく繊細な声と容貌に魅了されたのでした。個人的にも、この「花いちもんめ」は伸びやかで、歌詞のイメージも、鮮烈な放物線を描きながら心に吸い込まれてくるようで、何度聴いてもまた新しい気持ちで聴くことのできる佳曲であると思います。
 『風街ろまん』の一般的評価は、細野サウンドの“フォーク化”ばかりがことさらに強調され、必ずしも『はっぴいえんど』よりも高くはありませんでした。一方、URC系のアーティストやそのファンからは、洗練されたアコースティック・サウンドとして高い評価を得ました。しかし、『風街ろまん』はどう考えてもロック・アルバムとしかいい様がありません。サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジェイムズ・テイラーなどが、イギリス、アメリカの「ロック」に与えた影響は計り知れないものであったにも関わらず、こと日本で彼らの影響を受けたというと、たちまち“フォーク”の烙印を押され、嘲笑される。そんなムードが当時の日本にはあったようです。『風街ろまん』において、細野、大瀧を横糸として松本が編み上げた都市論こそ、彼らが意図した「日本語のロック」であり、その音がたとえウエスト・コーストの色彩を帯びていることが確かだとしても、「風をあつめて」などの細野作品を取り上げて「そら見たことか、やっぱりフォークだ」と鬼の首を取ったように批判するのはとんだお門違いといわざるを得ません。むしろこのアルバムは、いわゆる「はっぴいえんどサウンド=日本語のロック」という点で、これ以上ないほど緻密な完成度を誇っているといえます。
 一方で、「自分の曲は自分で製作する」という録音スタイルは、はっぴいえんど解散に至る一つの道筋を示してもいたのでした。

 71年度の彼らの業績の二番目として挙げたのは、そのスタジオ・ワークの豊富さです。
はっぴいえんどのメンバーが参加した主なレコードを見ると、
 高田渡『ごあいさつ』(キング)
 加川良『教訓』(URC)
 金延幸子『時にまかせて』(ビクター、名盤!!)
 南正人『回帰線』(RCAビクター)
 小坂忠『ありがとう』(コロムビア/マッシュルーム)
 遠藤賢司『満足できるかな』(ポリドール)
 ザ・ディランⅡ『男らしいってわかるかい』(URC)

などが挙げられます。この年メジャー・デビューした高田渡、遠藤賢司、金延幸子がURC系のミュージシャンであったことから、はっぴいえんどがURC系のアーティストに肩入れしていたことが窺われます。南正人と小坂忠は細野の旧来の友人ということもあり、その関係からでしょう。
 URC系を中心とするはっぴいえんどのこうしたバックアップは、はっぴいえんどとフォークとの結びつきを強く印象付け、彼らのロック界での評価にネガティブな影響を与えましたが、そもそもこうしたスタジオ・ワークは、ディレクターとアーティスト側の要請があって始めて成立するものであり、個々の作品だけを見て一方的な判断を下してしまうのは浅はかな態度なのではないかと思います。特に細野や鈴木の演奏テクニックはずば抜けて高く、彼らがバックアップするだけで、ギター一本の原曲のイメージが一変してしまうような魔法の力を持っていました。彼らにしても、そうしたフォーク系のミュージシャン達から受ける影響も大きかったでしょうし、何か「新しいもの」を模索しているという点では、ロックもフォークも同じ立ち位置にいたのだと思います。特に、大瀧にとっての初プロデュースとなる金延幸子の『時にまかせて』の、ごくごく淡い中に、彼女の清新な声の伸び、静謐さ、柔らかさを存分に引き出す手腕は、ため息の出るほど美しく、何か敬虔なものをすら感じてしまいます。
 72年以降も、はっぴいえんどのメンバーによるこうしたスタジオ・ワークはますます盛んになり、フォークばかりでなくミッキー・カーチス、布谷文夫といったロック・アーティストからジャズシンガー笠井紀美子のレコーディングまで、幅広い活躍を見せます。中心となっていたのは主に細野と鈴木で、二人の活動はやがてキャラメル・ママ/ティン・パン・アレーへと繋がっていきます。こうした「はっぴいえんど関連盤」を掘り下げていくのは、ファンにとって息の長い楽しみの一つでしょう。
 
 71年のはっぴいえんどの業績としてもう一つ挙げたのは、彼らの音楽活動を支える事務所“風都市”の設立です。この年の1月21日をもって岡林信康のバック・バンドを退いたはっぴいえんどは、従来の事務所である音楽舎に対して距離を置き始め、レコード会社こそURCでしたが、自分たちの音楽活動をより容易にするために独自のオフィス“風都市”を設立(4月頃)します。これはおそらくマネージメント担当の石浦信三らの発案によるもので、“風都市”というネーミングは、松本がセカンド・アルバム用に用意したタイトルを“借り出した”ものでした。そのため、セカンド・アルバムのタイトルが『風街ろまん』になるのです。
 “風都市”を実質的に仕切ったのは、はっぴいえんどのメンバーではなく、石浦信三を初めとする数人の人間でしたが、その活動は、はっぴいえんどとその周辺のアーティスト(はちみつぱい、ぱふ<吉田美奈子のグループ>、DEW<布谷文夫のグループ>など)の表現の場の確保と、ギャランティー関係、マネージメント業務を目標としていました。
 風都市の最初の活動は、東京は渋谷百軒店にオープン(4月28日)した“BYG”というライヴ・スポットのブッキングでした。“BYG”は、当時東京では数少ないロックを聴かせる店で、昼間は1、2階でレコード、夜は地下でライヴというシステムをとっていました。ライヴのブッキングが全面的に風都市に任されたため、その出し物は異色で、はっぴいえんどをはじめ、あがた森魚、はちみつぱい、ぱふ、DEW、乱魔堂、小坂忠などが“メニュー”の中心でした。なんというメンツでしょうか…!!また、風都市は各地で開催されるコンサートやイヴェントにも積極的に関与していきました。
 72年春頃までBYGのブッキングを担当していた風都市でしたが、BYGのライヴが中止になったことに伴い、同店から手を引き、今度は株式会社組織に改組、事務所も六本木から市ヶ谷に移転して再出発します。正確には、ウィンド・コーポレイション(プロモーション業務)とシティ・ミュージック(音楽出版業務)のふたつの会社を興し、アメリカ的なプロダクション・システムの確立を目標に活動します。
 特にシティ・ミュージックは、はっぴいえんど正式解散の年、’73年まで精力的な事業活動を行い、南佳孝『摩天楼のヒロイン』(プロデュース・松本隆)、吉田美奈子『冬の扉』(プロデュース・キャラメル・ママ)の二枚のLPを、トリオ・レコードのショーボート・レーベルからリリース、原版製作会社としてのポジションを獲得しようとしますが、セールス的には失敗、シティ・ミュージックの活動は73年一杯で終止符を打ちます。しかし、風都市―ウィンド・コーポレイション/シティ・ミュージックの音楽産業全体に及ぼした影響は大きく、その後の日本の音楽産業は彼らの目標としたプロダクション・システムへと指向していくことになるのです。はっぴいえんどとその周辺のアーティストたちのための、音楽制作環境の構築を主眼として活動するその過程を通じて、日本の音楽産業の構造を改革するひとつのきっかけにもなったのでした。例えばベルウッド・レコードの設立のような、レコード製作者の側から、新しいアーティストたちの表現の場を確保しようとした試みなどは、風都市の活動と呼応するように行われていました。
 
4.終りの始まり

 『風街ろまん』以後のはっぴいえんどは、バンドとしてのまとまりをしだいに失っていきました。アルバムのクレジットを見ても分かる通り、作曲者が各自各作をプロデュースするスタイルが採られていたので、バンドとしてのサウンドを目指しながらも、結果的に『風街ろまん』には、各メンバーの個性が強く前面に現れることになりました。
 すでにアルバムの製作時点で、細野、大瀧はもちろん、鈴木もソロ・アーティストとしての才能を十分に発揮していたのであり、松本も作詞家としての才能を開花させていました。言ってみれば、はっぴいえんどの、バンドとしての最高点は『はっぴいえんど』であり、『風街ろまん』では、さながらビートルズの『ホワイト・アルバム』の如く、メンバーが各々の個性を「はっぴいえんど」という媒体を通じて表現していったという見方ができるでしょう。『風街ろまん』以後、バンドとしてのはっぴいえんどの存在意義がしだいに希薄なものになっていくのは当然の成り行きだったかも知れません。
 はっぴいえんどのバンドとしてのアイデンティティーを失わせるきっかけとなったのは、大瀧詠一のソロ・アルバム製作でした。細野、鈴木両氏はバンド以外にもスタジオ・ミュージシャンとしての仕事があり、他のアーティストと関わる機会もあったわけですが、楽器演奏のテクニックのない大瀧や、ドラマーとしては評価のあまり高くなかった松本にしてみれば、スタジオで日銭を稼ぐわけにはいかず、作品で勝負するほかありませんでした。そこで、大瀧はベルウッドから持ち込まれたソロ・アルバム製作の話に乗るのですが、このことで、他のメンバーとの間に微妙な軋轢が生じたことも事実でした。
 大瀧のソロ・レコーディングは、71年10月に始められました。10月6日に『風街ろまん』のミックス・ダウンが終わって、三日後にはまずシングル「恋の汽車ポッポ/それはぼくじゃないよ」のレコーディング、『風街ろまん』の発売が11月であったのに対し、大瀧のシングルの発売は12月でした。自分達だって十分ソロでやっていけるのに、大瀧に先を越された形の他のメンバーは、当然あまり面白くなかったんじゃないか、と思われます。その後、大瀧ははっぴいえんどのメンバーとしてステージを務める一方、72年3月よりアルバム製作に入り、『風街ろまん』からちょうど一年経った72年11月にソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースします。
この間、はっぴいえんどには一時、ベーシストとして野地義行(第1期ブルース・クリエイション、ぱふなどで活躍)が参加していました。これは、細野がキーボードに専念してステージでのサウンドに厚みを出すためでしたが、実際には72年4月から同年夏頃までの間のことで、野地ははっぴいえんどのメンバーとしての作品は残していません。わずかに、大瀧のソロ・デビュー・アルバムの「五月雨」でベースを演奏したクレジットが残っているばかりです。
大瀧のソロ・アルバム製作の過程では、はっぴいえんどの他のメンバーも全面的に協力していますが、むべなるかな、細野、鈴木はそれほど積極的なわけではなかったようです。特に細野はこの時点ですでにはっぴいえんどとしての活動に限界を見ていました。大瀧にしても、はっぴいえんどに対する帰属意識は強かったものの、ソロ・アルバム製作をきっかけに、バンド内における自分の位置を維持することが難しくなってきており、細野、大瀧、ともに、この時点ではっぴいえんどの解散を決意していたと思われます。つまり、実質的な解散は72年夏には決まり、あとはすでにブッキングされていたコンサート・ツアーを消化するだけでした。
しかし、同じ頃、精神的にはもうばらばらになっていた四人を、なんとかもう一度だけまとめ上げようとした人物がいます。
それは、ベルウッドの三浦光紀でした。彼は、なんとかあと一枚、はっぴいえんどのアルバムを残したいと、四人にひとつの提案をします。
ロサンゼルスでの録音です。ここから、さながら『アビイ・ロード』のような、はっぴいえんどの最後の輝きがきらめくことになります。

続く。
<ナカムラ>
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by beatken | 2009-04-24 15:22 | review
2009年 04月 04日
はっぴいえんど(4)
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3.日本語とロックと五人目のはっぴいえんど

 はっぴいえんどの「日本語のロック」というコンセプトは、『はっぴいえんど』でほぼ実現されたと言われています。何事も、端緒をつけるパイオニア達には様々な暗中模索が課され、そのサウンドや歌詞にはまだ若干の生硬さが感じられるものの、松本・大瀧のタッグが創り上げた数々の名曲の中には、確かに日本語でしか表現できない(「春よ来い」「12月の雨の朝」など)ものが存在しており、演奏技術、アレンジの点においても当時の日本の最高技術レベルであった事は間違いなく、このアルバム以降、日本のロックが「日本語」を意識していく事になるのです。
 ここで、特筆すべき一つの論争があります。「日本語のロック論争」と呼ばれるもので、発端は、70年8月3日、『新宿プレイマップ』10月号のための座談会で、出席者の一人である内田裕也が、大滝に対し「日本語はロックに乗らない」という批判を浴びせた事に始まります。この論争はファンをも巻き込んで翌年まで持ち込まれ、再びNMM(ニュー・ミュージック・マガジン)誌5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」における座談会(福田一郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、大瀧詠一、松本隆、折田育造、中村とうよう、小倉エージ)にて論議されています。一連の論争から、内田裕也を代表とする「アンチ・日本語ロック」側の意見をまとめてみると、

①日本語はロック・ビートに乗らない。あるいは乗りにくい。
② 海外で成功するには英語でなければならない。
③ URC系の作品が不当に高く評価される理由が分からない。

の三点に集約されるようです。中でも③が、最も強調されていました。①、②に関しては、それが当然であることは誰の目にも明らかであり、しかし、考えてみると、海外ミュージシャンのオリジナル英語詞を、正確な発音で歌えるようなアーティストは、当時ほとんど存在していなかった事もまた事実であり(現在は随分とその辺りが進歩したように見受けられますが)、つまりは、はっぴいえんど側における、「輸入品のロックを日本的風土のなかで定着させる」試みと、内田裕也側における「輸入品は輸入品として、正確にコピーしよう」という方向性の対立といえます。もっと言えば単に内田裕也がURCを好きじゃなかったんでしょう。暗いとか言って。まあ人それぞれ色々な評価があります。絶対的な評価を万人から受けるものなどこの世に存在しないのです。
 はっぴいえんど自身、ステージでのレパートリーは日本語にこだわらず、バッファロー・スプリングスティーン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを演り、日本語詞についてもボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルなどの影響を色濃く受けています。いずれにしても、はっぴいえんど側は論争に積極的ではなく、もっぱら反対側からのふっかけだったという話です。
 さて、はっぴいえんどのライブ・パフォーマンスですが、アルバムの完成度の高さとは打って変わって、悪評高いものであったことは否定できません。これは、アルバムの多重録音を、四人だけで完全に再現する事が技術的に不可能であったこともありますが、何より彼らは、個々の技術は高いものの「練習嫌い」で有名であり、そのための凡ミスも多く、それは以前部室で、はっぴいえんどのライブ盤に合わせてベースを弾いていた某氏が、「これ半音ずれてる。チューニング狂ってるよ、ほら」といって弾いて聴かせてくれたことからも立証されているでしょう。大瀧詠一のヴォーカルとバックの演奏のキーが合っていない、なんてこともあったようです。また、細野は自分が歌うのをあまり好まず、細野のレパートリーも大滝が歌っていたことなども、原因の一つだと言えるかもしれません。とはいえ、すべてのライブがひどかったというわけではもちろんないことは、当然言っておかならないでしょう。
 デビュー初年の70年について、もうひとつ触れておかなければならない人物がいます。「五人目のはっぴいえんど」石浦信三です。坂本竜馬における中岡慎太郎のような存在だと言えばもっと分かりにくくなるでしょうか。
 石浦信三は、松本隆の小学校5年以来の友人で、松本がはっぴいえんどを結成する頃から、アドバイザーとしてこれに関わり(当時慶応大学在学中)、すでに『はっぴいえんど』のコンセプト・ワークの段階から、はっぴいえんどの方向性を補強する理論的・精神的支柱の役割を果たし、「日本語のロック」に対する攻撃から身をかわすための戦略さえ提供したと言われていますが、しだいにマネージメント的な仕事も引き受けるようになります。この石浦の存在が、翌71年以降のはっぴいえんどの音楽活動および日本のロック界の動向に少なからぬ影響を与える事になります。
 71年のはっぴいえんどは、三つの業績を残しました。セカンド・アルバム「風街ろまん」の製作、URC系のアーティストを中心とした数多くのスタジオ・ワークをこなし、ミュージカル・ディレクターとしての地位を確立し始めた事、そして、単なるマネージメント・オフィスを超えたミュージシャン・アーティスト仲間の統一体「風都市」を設立したことです。
 はっぴいえんどの音楽性は、松本・細野の強力なコンセプトに従って、優れた作曲家、ヴォーカリストである大瀧詠一、天才ギター少年鈴木茂がその才能を爆発させるという形で発展してきたものであり、それだけに、船頭多くして船沈むのたとえではありませんが、四人が全く同じ方向を向いて活動できる期間には、おのずと限りがありました。個人が自分達の独自性を主張して対立し始めるのは時間の問題でした。しかし、「日本語のロック」という原則だけは、四人が等しく共有するものでした。と、なれば、最も重要になってくるのは松本隆の書く日本語詞ということになり、松本はその期待に見事応えるのでした。それが、かの名盤「風街ろまん」です。
 
 アルバム『風街ろまん』(71年11月発売)について
・ 60年代末期的な、いわゆる『ガロ』誌の世界観から決別し、70年代の都市の再生と復権を多彩に表現しようとしている。

・ その詞に注目すれば、前作『はっぴいえんど』に比べてはるかに洗練されていて、言葉自体にリズム感があふれていた。「風」と「街」を主旋律としたその表現の構造は、建築家であり詩人である渡辺武信の影響を受けている。が、その「言葉たち」が、細野、大瀧、鈴木の表現力と幸せな結合をしたとき、すがすがしい緊張感と、都会を通り抜ける颯爽とした風のような珠玉の楽曲群となった。

・71年四月中旬から始まった延べ、約六ヶ月間という、当時としては異常な長さのレコーディング。二百数十万円といわれるスタジオ・レンタル料も破格だった。前作の高評価を受け、はっぴいえんど主体でレコーディングは進められた。ミキサーに、アメリカから帰国した直後の、精気と才気に溢れる吉野金次、ビクター所属の梅津達男(会社の関係でクレジットは近藤武蔵)、さらにキングのハウス・ミキサーだった山崎聖次の三人を配し、A&Rマン(アーティスト・アンド・レパートリーの略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する)的なディレクターをミュージシャンでもあった岩井宏(アート音楽出版)が担当、キングの三浦光紀(のちのベルウッド・レコード創設者)の協力を仰ぎながら、石浦達三(風都市)のマネージメントのもとで、レコーディングは進められた。

・ 代表曲としては「はいからはくち」(松本・大瀧)「風をあつめて」(松本・細野)などがある。「はいからはくち」は、“ハイカラ白痴”と“肺から吐く血”を意識的にダブらせた「はいからはくち」は、日本・東京文化圏の重層的な構造を、松本隆がアイロニカルに表現した作品。“ハイカラ”という死語の再生、日本語的な“音韻”へのこだわり、松本隆は言葉の持つエネルギーを、この「はいからはくち」で引き出そうとして成功している。その詞が、大瀧詠一の持つ、ロックンロールへの深い造詣によって裏打ちされ、ロックの持つ毒がリアルに体験できるイカシた一曲となっている。「風をあつめて」はファースト・アルバムの細野作品からは意外とも思えるアコースティックな作品。当時細野が影響を受けていたといわれるジェイムズ・テイラーの雰囲気を感じさせる。「歌う」ということに恥じらいと抵抗の見えた以前とは異なり、彼は小坂忠のアルバム「ありがとう」(71年10月発売)の製作に関与する過程で、低音で素朴に表現する歌唱法に開眼し、「風をあつめて」でそれを結実させた。松本の詞が極めて視覚的、鮮やかなイメージを伴う完成度の高いもので、東京の都市、風景がもつ匂いを「です、ます」という日常的な語尾で表現している。これはそれまでの音楽を見てもあまりみられない新鮮なものであった。ちなみに、はっぴいえんどは今まで一度もこの「風をあつめて」をライブで完璧に演奏できた事がない、と聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、レコーディングの際、全てを通しで弾くのではなく、一小節ずつパンチ録音していったという噂もあるくらいなので、本当かもしれない。

続く。
<ナカムラ>
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by beatken | 2009-04-04 17:13 | review
2009年 01月 23日
はっぴいえんど(3)
c0075476_2352398.jpgいつ果てるともしれぬはっぴいえんどの旅路。さて続きといきましょう。
ヴァレンタイン・ブルーの初ライブは1969年10月28日でしたが、これはあまりうまくいかなかった模様。しかし、チャンスはどこに転がっているかわかりません。11月23日、細野と大瀧というとんでもないデュオがステージに立ちます。代々木区民会館の「フォーク」コンサートです。フォークと冠されている以上、無論エレキギターやベースを抱えることはできないため、細野のフォークギター一本という潔いスタイル。今こんなステージを観ることはおそらく不可能に近いと思われ、会場にいた人がうらやましい限り。時代のなせる業でしょう。ここで、細野、大瀧のオリジナル、ジョニ・ミッチェルの「チェルシー・モーニング(あんな音域の広い歌をどうやって…!)」の三曲を歌っています。この時聴衆の中にいたのがURCのディレクター小倉栄司、現在でもよく音楽雑誌やアルバムのライナーノートでお目にかかりますね、「小倉エージ」と書けばピンとくる人もいるんじゃないでしょうか。同じくURC関係の元ジャックス・早川義夫もいたそうです。
エイプリルフールの頃から細野に強い興味を持っていた小倉は、コンサート終了後ふたりにレコーディングの話を持ちかけます。ふたりともURC?なにそれコーヒー?みたいな状態だったらしいですが、レコーディングの話をされて気を悪くするミュージシャンはいません。
ここで、細野、大瀧両氏のようにURCとはなんぞやと疑問を持った方々に説明すると、URCレコードとは、「受験生ブルース」などで有名なフォーク歌手、高石友也の音楽事務所を母体とした、非営利的側面の強い音楽事務所「音楽舎」の会員制レコード頒布組織「アンダーグラウンド・フォーク・クラブ」が発展してできたものです。主に反戦フォーク、とりわけ関西系フォークの牙城といったイメージが強く、岡林信康、高田渡、中川五郎、五つの赤い風船などが所属し、何だかんだで結構うまいこと商業ベースに乗っかっていました。高石友也は、歌手としてはもちろん、実業家としての手腕があったのでしょう。
翌70年1月16日、ヴァレンタイン・ブルーのレコーディングは正式に決定されます。小倉は、ヴァレンタイン・ブルーを、当時飛ぶ鳥をガンガン落としまくっていたフォーク界の寵児、岡林信康のバックバンドへと据え(ちょうど彼がボブ・ディランのようにエレキに転向しようとしていた時期でした)、そのキャリアを通じてヴァレンタイン・ブルーをプロモートしていくという意図があり、実際に岡林本人から要請がありました。
細野は最初渋ったものの、非常にしたたかな野望を持ってこれを承諾します。それは「演奏技術の向上」と「経済的保障」です。なんと岡林信康をダシに使って、ちゃっかりステージ経験を積み、ついでにマネーも稼いじゃお、というのです。このくらいのがめつさ(情熱という美しい言い方もあるにはありますけども)がないと、この世界でやっていくのは難しいということなのでしょうか。思い出してみれば、細野が立教大学の学生だった時分に、「エイプリルフール」に参加したのも「給料が出るから」であったことを鑑みれば、これは当然の選択だったと言えるかもしれません。
この選択は、実際にヴァレンタイン・ブルー(はっぴいえんど)の将来に良い影響をもたらしました。岡林信康のバックで演奏する彼らはまさに、ボブ・ディランにおけるザ・バンドと言ってよく、一気にその知名度を上げる効果があったことは間違いありません(マイナーシーンではありましたが)。と同時に、後々まで「あ、岡林の後ろのひとね」と、名前を覚えてもらえず「あのメガネ」などと呼ばれてしまう人と同じ宿命をも背負うことになりました。“演奏に徹する職人”といったイメージが強く、彼らの特異な創造性に耳目が集まらないという現象がそれです。

この年、2月から3月にかけて、特筆すべき出来事があります。
はっぴいえんどのファーストアルバム「はっぴいえんど」には、ずばり「はっぴいえんど」という名の曲があり、細野はそれにインスピレーションを受けてバンド名を「はっぴいえんど」に変更したのです。さて、この一文に「はっぴいえんど」は何度使われたでしょうか。
当初は「ハッピーエンド」と片仮名表記だったものを、70年8月のファーストアルバム発表時に平仮名表記を採用しています。70年6月発売の岡林信康「見る前に跳べ」のクレジットでは、まだ「ハッピーエンド」のままなのだそうです。アルバムをお持ちの方はブックレットをチェックしてみるのも楽しいですね。
バックバンドの初仕事は遠藤賢司だったなんてトリビアを挟みながらも、3月18日、いよいよはっぴいえんどの初レコーディングが始まります。ディレクターは早川義夫。

が、しかし。

この日の演奏は、完膚なきまでにガッタガタのボンニョボニョでした。
何が原因かはよく分かりません。何か悪いものでも食ったのでしょう。グレーゾーンな生ガキとか。或いは夜に爪でも切ったのでしょうか。ともかく、この日のサウンドは、ミキサーの吉田保(吉田美奈子の実兄)が憤慨して帰ってしまったという伝説が残っているほどのひどさでした。そこまで言われると、一回聴いてみたくなるのが人間のフシギなところですね。ディレクターとミキサーは、両方ともレコーディングを降りてしまいます。満を持してはっぴいえんどを連れて来た小倉栄司の心中やいかに!
と、いうわけで、先に岡林の「見る前に跳べ」のレコーディングが先行されることになりました。自分たちの失敗もどこへやら、このレコーディングは、完全にはっぴいえんど主導で進んでいきました。すごく緊張感のあったレコーディングのようで、後に岡林は、

「何か言ったら殴られると思った」

と、ラモーンズにビビるジョニー・ロットンのようなセリフを残しています。
さてその後、延期されていたはっぴいえんどのレコーディングが4月9日に再開されます。ディレクターの椅子には小倉栄司が座り、当時の日本の水準から見れば革新的な音づくりが始まりました。レコーディングは9日から13日の早朝まで続き、鈴木茂の「やあ、すがやかな天気だなあ」の名台詞(「すがすがしい」と「さわやか」がフュージョンしたらしい)のもと、アルバムは完成しました。残っていた「見る前に跳べ」のレコーディングが終わると、岡林のバックバンドとしての初仕事、渋谷公会堂「岡林信康壮行会」をむかえます。しかし何でしょう、この高校総体を彷彿とさせるネーミングは…。はっぴいえんどはこの後、翌年の1月まで、岡林のバックバンドとしての職務を果たします。これは、はっぴいえんどに知名度と、経済的な保障を与えた一方、聴き手が岡林とはっぴいえんどを同一視するという弊害も生まれてしまいました。

ファーストアルバム「はっぴいえんど」について。
発売:1970年8月5日 URCレコード
・通称ゆでめん。アルバムのジャケットを見れば、その理由は一目瞭然。
・全曲とも、日本語詞である。当時はこれが画期的だった。しかも、とりあえず日本語を乗せてみました、といった体のものでなく、詩情に富んでいる。松本隆の才能に負うところが大きい。
・楽曲の構造・構成が非常に緻密である。はっぴいえんどはよく、バッファロー・スプリングフィールドとモビー・グレイプを足して二で割った、等の評価をされるが、表面的なコピーではなく、深く自らで消化し、新たな発明をふんだんに用いた音になっている。
・楽器、音楽理論に精通していた。はっぴいえんどのメンバーは、多様な楽器を用いて、それらの楽器の特性を十分に引き出すような、効果的な使用をしている。特にパーカッション類の扱いにはかなり熟達していたものとみられる。
・アルバム・デザインに表れたトータリティ。サウンドとジャケットのデザイン が、ひとつのテーマを持って訴求してくる。林静一のジャケット・ワークは今見ても秀逸。バッファロー・スプリングフィールドの「アゲイン」にヒントを得「スペシャルサンクス」を付随させ、はっぴいえんどを理解する上で重要なカギとなるアーティスト、詩人の名を列挙している。これらを見たり読んだりすれば、ある程度はっぴいんどがいかなるバンドなのかを把握することができる。余談だが、音楽配信華やかりし現在、いかにして、このようなトータリティを表現させるのか、興味深い点である。

この一枚のアルバムをもって、日本語ロックの地平は開けてゆきます。

続く                                            
<ナカムラ>
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by beatken | 2009-01-23 22:58 | review
2008年 11月 18日
はっぴいえんど(2)
c0075476_2234319.jpg2.「午前一時は宵の口」

さて続きと行きましょうか。ストロークスを聴きながら書いてますが、裏切り者とか言わないで!
結成時にはもう解散の香りが漂っていたエイプリル・フール。細野、松本両氏が考えていた新しいバンドのコンセプトは、「当時の最新ウェスト・コースト・サウンドであるバッファロー・スプリングフィールド(の『アゲイン』)を音作りの手本とし、そこに日本語が乗る」というものでした。69年7月にテレビ出演(ヤング720)した細野は、ここできっぱり

「来年は日本語とロックを結納する」

と言い切ったらしいです。結納って表現が日本人らしさを表していてなんかかっこいい。と思いきや、実は「融合」と言いたかったらしい。実際の放送は見ていないので確証は持てませんが、結納なら結納で、結構意味が通るからむしろこっちの発言を正式なものとしたい気が個人的にはします。
ところが、ここで問題が生じます。小坂の忠さんです。当初は新バンドのヴォーカリストに…というつもりが、何がどう転がったのか、日本で初めてのロック・ミュージカル『ヘアー』のオーディションに受かってしまい、出演が決定したのです。小坂忠という人は、写真で見るとかなりロック的な顔立ちをしている(ロック的な顔立ちの定義については各人の想像力にお任せします)ので、選ばれても別に不思議な感じは全然しません。しかし困ったのは細野、松本両氏です。そんな69年夏頃、細野と以前から親交のあったある人物がぬぬーっと現れます。こんな言葉を口にしながら…
心の準備はいいですか?いきますよ…。

大瀧詠一「バッファローがわかった

っかー!シビレルー!! 僕は以前から、「男が一生に一度は口にしてみたい言葉ランキング」というものを自分で作成しており、委細は省きますが、まあその中身は「あれ? 12時なのに魔法が解けないんだね」とかそういう墓場にまで持っていかねばならないワードの宝庫な訳です。そんな中にあって、燦然とTOP3にランクインしているのがこれ、「俺はバッファローがわかった」。男なら一度は分かってみたいですね、バッファロー。通過儀礼的な意味合いでね。「座右の銘は?」といつか誰かに聞かれるのを楽しみにしているところです。
話を戻して、はっぴいえんどの重要なメンバーである大瀧詠一について少し。彼は岩手県出身。いいですねー。固い感じがしますね、なんとなく。そして中学・高校時代からとてつもないポップス・フリークで、エルヴィス・プレスリー、ビーチ・ボーイズ、フォー・シーズンズ、ガール・グループ(ロネッツ、クリスタルズ、シュープリームス)、そしてビートルズを中心とするリヴァプール・サウンズ大好きっ子でした。ビートルズの『抱きしめたい』を何百回も繰り返し聴くような、そんなチャーミングな一面も。微笑ましいエピソードですね。中二でFEN(ラジオの短波放送)を聴きつつチャートをつける毎日。エルヴィスに至っては作曲家別に分類・分析するという、一歩間違うと大変なことになってしまいそうな、滅法ゴキゲンな少年だったのです。
本人はドラムスなどをちらっと叩いたことがあったのですが、将来は漠然とDJになるつもりでいたようです。1967年春、大学に落っこった彼は、予備校通いを口実に上京、水が高いところから低いところに流れるが如くナチュラルに、仕送りはレコードに変身していきます。後にブルース・クリエイションに関わっていく布谷文夫らとバンド活動を行ったりしていましたが、その布谷を通じて様々な人物と出会っていきます。その中に細野晴臣もいたのです。大瀧は細野宅で『勉強会』―なんか政治家みたいなネーミング―と称して様々なポップ・ロックを聴きまくり、作曲技術などに磨きをかけていったようです。一晩中レコードを聴いて明け方早朝ボーリング。何なんでしょうかねこの一連の流れ。意味はよく分かりませんがなんとなく納得できてしまうのがなんともいえません。願わくば、そんなテンションのまま人生を乗り切ってみたいと切に思います。
松本も、もちろん大滝と面識はありました。しかしその印象たるや、

麻雀のときやたら怒鳴る人

だったというから最高です。たしかに大瀧は、後に麻雀の歌も作ってます。70年代の学生というものは、なにかというと卓を囲んでいるような印象がありますね。
だんだんと役者が揃ってきました。

1967年以降のロックは、どちらかといえば破壊的、アナーキーなものでした。楽しくて明るいポップソングは否定され、よりドラッギーでサイケデリック志向。「政治的」なものが求められていたと言えます。ある時期のグレイトフル・デッドなどに代表される、延々と続くインプロヴィゼイション(これもまた良し、なんですが)などが人気を博していました。そこからサイケデリックをアートとして昇華させたグループが少しずつ生まれていきます。イギリスではバニラ・ファッジが相当すると言われます。そしてアメリカでは、ジェファーソン・エアプレインなどと共に、バッファロー・スプリングフィールドがこれを代表するバンドだったのです。バッファローもサイケ色溢れるバンドですが、『アゲイン』を聴くと、すごくポップで明るい色も感じられて、細野、大瀧の好みにばっちり応えていたと言えるでしょう。カントリーフレーバーにも富む名盤です。はっぴいえんどのアルバムと聴き比べてみると、非常に面白いです。

エイプリル・フールは、細野にとって、そうした、ともすると重い、難解なロックから決別し、アメリカン・ポップスのにぎやかな楽しさをバッファローを媒介にして再生させるためのバンドでした。実を言うと、大瀧は当初こうした細野の意図が分からなかったようですが、後にふと友人の勧めでバッファローのシングルを聴いたとき、はっとバッファローの良さに気がついたそうで、それが上記の「バッファローがわかった」発言へと繋がっていくのです。このとき初めて大瀧は、音楽をやる気になったのです。歴史的な瞬間と呼んでもいいでしょう。1969年9月4日のことでした。
これが、はっぴいえんどの事実的な第一歩になります。

9月23日、細野は新しいグループ名を“ヴァレンタイン・ブルー”と決定、その後松本宅において3者ミーティングが行われます。27日の「エイプリル・フール・レコード発売記念」という名の解散コンサート、10月2日の「エイプリル・フール・フリー・コンサート」の終了を待って、細野、大瀧、松本の3人は、新しいグループの構想を練るため、東北から中部を周るドライヴ旅行に出かけます。まるで一本の映画のような雰囲気ですが、いつの時代も、音楽にはこうしたロード・ムービーが必要なのかもしれません。こうした一体感を経て、バンドは新たな着想を得たり、結束を強くするのでしょう。
旅行から帰って来た後、細野はギタリストを誰にするのかを考える必要に迫られます。エイプリル・フールに比して、ヴァレンタイン・ブルーは演奏力の点で劣っていました。大瀧はギタリストとしてよりも、ヴォーカリストとしての実力を買われていたからです。バンドの構想を実現するためには、相当なテクニックを持っている人材が必要とされます。細野の頭の中には、まだ高校生ながら、抜群のギターセンスを持った1人の少年の姿がすぐに浮かんできます。
鈴木茂です。
しかし鈴木茂も、小原礼、林立夫と“スカイ”というバンドで活躍していたこともあり、細野の誘いに少し躊躇したようです。しかし、松本・大瀧のオリジナル第1作「雨あがり」、これは「12月の雨の朝」の原曲ですが、これを聴き、その作曲能力の高さ、「日本語のロック」というコンセプトに魅力を感じ、ヴァレンタイン・ブルーへの参加を決めます。そしてその場で、あの「12月の雨の朝」のイントロを飾る印象的なフレーズを創り出してしまうのです。入ってくれてよかったよかった…。

さて、前置きが長くなりましたが、これでメンバーは全員揃いました。
ヴァレンタイン・ブルーという名の「はっぴいえんど」は、ここから本格的に動き始めます。

続く
<ナカムラ>
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by beatken | 2008-11-18 22:35 | review
2008年 10月 22日
はっぴいえんど(1)
c0075476_18263785.jpg細野晴臣 - ベース、ボーカル:東京都港区出身。
ピアノやオルガンも担当する。
大瀧詠一 - ギター、ボーカル:岩手県江刺郡梁川村(現奥州市)出身。
松本隆 - ドラム、作詞:東京都港区出身。
鈴木茂 - ギター、ボーカル:東京都世田谷区出身

1969年「バレンタイン・ブルー」として結成、後に「HAPPY END」、転じて日本語表記の「はっぴいえんど」へと改名、URCレコードから『はっぴいえんど』『風街ろまん』、ベルウッドレコードから『HAPPY END』を発表している。1972年末解散。(wikipediaより抜粋)


自分がいかによく知っているものでも、他人にとっては全然まったく門外漢のチンプンカンプンのとんでもハップンだったりすることは世の常です。その辺の人捕まえて「かの有名なメネラウスの定理について質問したいんですけどー」と言ってみたところで質問された側にしてみればただひたすら周章、三歩下がって狼狽するより他なく、井の中の蛙、っていうのかどうなのかこの場合よく分かりませんが、自分のよく知っているものって他人も当然知ってると思い込んでいると大変文学的な人生になる恐れがあるので注意して生きていきたいものです。知らない土地に来て、地元のおばちゃんに道を尋ねたら「ホラッ!あのジャスコの向かいをグワッって入ったとこよ!ホラホラジャスコジャスコ!…知らない?分かるでしょあのジャスコよ」と謎のジャスコを連呼され(偶然韻を踏んでしまいましたが)、思わず「しらねーよ!」とブレーンバスターのひとつもお見舞いしたくなってしまうアレです。

そういうものの代表的な例が、音楽的に言えばこのはっぴいえんどに該当してしまうのではなかろうかと思われます。多分に個人的な意見ではありますが。この、日本語のロックを真剣に追求した四人組が残した三枚のアルバムには、その1970年代の「今」の空気と共に、現在今ここにいる我々にも同じように共感できる何かが凝縮されています。本来、西洋舶来の音楽であるロックが、単語自体にある種のビートが存在する英語でなく、異なった文法・発音体系を持った日本語で表現できるものなのか? それは、実のところまだ未消化のまま今日まで残されているように思われます。ただひとつ確実に言えることは、「日本のロック」というものが存在するためには、ただ海外からやってきたものをそのまま模倣し、そこへ日本語の歌詞を付加するだけでは全く不十分だったということでしょう。西洋におけるロックは、いきなり無からロックとして誕生した訳ではなく、それ以前のブルース、カントリー、R&B(年代的に先というだけであって、どちらが上というものではありません)など、黒人音楽を中心としたさまざまな音楽を吸収し、それが1950年代後半に結晶となって60年代に爆発した音楽であり、その成熟した果実のみを輸入し、銀の皿に並べてみたところで、肝心の幹や枝葉、さらに土壌や生育環境まで吸収するのは至難の業といえるでしょう。

しかし、そこに違った面白さを見出すことも可能なのではないか? そう考えることもできます。自己流の解釈、日本の視点から捕まえたロックというものがあれば(日本語でやる以上そうならざるを得ないとも言えますが)、それはそれとして独立した価値と魅力を備えることができます。これは他のことにも言えるのですが「勘違い」は意外に強いものなのです。多くの新しい文化が偉大なる「勘違い」によって生み出されているんじゃないか、とこれは個人的な推測ですが、そう思っています。
さて、では、どうしたらいいのか? となるとやはり頭を抱えてしまうもので、何事もまずは模倣から始まります。ここから、はっぴいえんどというバンドを通して、日本語ロックが挑んだ闘いについて考えてみたいと思います。

1.1969年4月1日
「日本語ロックの形成」を考えるにあたって、60年代に一世を風靡したGS(グループ・サウンズ)は避けて通れない道なんですが、今回はあえて避けます。すんません。話が膨大になり過ぎてしまう恐れがありますので。しかし、GSに関わった人脈が日本のロックを発展させていったことは、しっかりと認識しておきたいところです。特にザ・スパイダースの怪人、ムッシュかまやつことかまやつひろしのソングライティングなどは…。そしてはっぴいえんどもまた、GSとの縁が深いバンドなのです。
はっぴいえんどは、結成当初からはっぴいえんどだったのではありません。その前身となるグループがあります。それが「エイプリルフール」です。さらに、このエイプリル・フールにも母体となったグループ「フローラル」が存在していたりします。ややこしいことこの上ないですが、この「フローラル」は、もともとモンキーズ・ファンクラブの公募オーディションによって68年に結成されたGSバンドであり、ここにはっぴいえんどとGSとの繋がりが感じられます。もっとも、最初の「フローラル」には、はっぴいえんどのメンバーは一人もいません。メンバーが数人脱退した後、バンドの主要人物である柳田ヒロは新しいメンバーを探し始めます。そこである立教大学の学生に声を掛けるのです。彼は柳田の実兄が結成していたビートルズのコピーバンド「ドクターズ」でベースを弾いていて、当時から「あいつはウマイ」と評判でした。

ベーシストの名前は細野晴臣といいます。

柳田は、細野をレコーディングと月給五万円を条件に「フローラル」に誘います。卒業を控えていた細野は「半ば就職のつもり」でバンド加入を決心したそうです。この、なんとも軽い感じが、その後の事の重大性を鑑みると、なんともいえず格好良く思えるのは僕だけでしょうか。細野は当時サイケデリック・ロックバンド「バーンズ」でもベースを担当しており、そこにいたドラマーも、「フローラル」に加入することになります。この人物が、慶応大学の学生だった松本隆です。日本のロックシーンはかなり一局集中だったことが窺われます。
こうして出来上がった新生「フローラル」は、オリジナルメンバーである柳田ヒロ、小坂忠、菊池英二に、新たに加わった細野晴臣、松本隆の五人となり、1969年4月1日、日付にちなんで「エイプリル・フール」として新たなスタートを切ります(命名は細野)。

ここで後のはっぴいえんどのメンバーとなる二人が登場するのですが、音楽的なことがらについて少し説明を加えると―

細野晴臣は、早くからアコースティックなサウンド―ピーター・ポール・&マリー、キングストン・トリオ、ボブ・ディラン―の影響を強く受け、立教大学に入学後も、さまざまなアコースティックバンドに参加、ビートルズやマージー・ビート、アメリカのウェスト・コースト系の音楽(ビーチボーイズなど)やブルースロックなどにも多大な影響を受けながら独自の音楽性を見出していきます。音楽センスは他のバンドと比べても群を抜いており、複数のバンドから引く手あまただったそうです。。
ベーシストとしての側面が強調されがちですが、優れたアコースティック・ギタリストでもあった訳です。

松本隆は、小、中学校時代、クラシカルな音楽、特に20世紀のもの―ドビュッシー、マーラー、ストラヴィンスキー等―を好んで聴いていたようです。また、ポー、ランボー、コクトー、ボードレール等のヨーロッパ近代文学に没頭する文学少年でもありました。なんちゅー少年だったんだと突っ込みを入れたくなりますが、後々の活動を考えると妙に納得してしまいます。後にビートルズと遭遇(リアルタイムなのが羨ましい限り)し大きなショックを受け、リヴァプール・サウンドやシャドウズなどのインスト・ポップに惹かれていくことになります。そして、忘れてならないのは早川義夫率いる「ジャックス」の影響でしょう。

この二人だけを見ても、その音楽的な裾野の広さには驚嘆させられてしまいます。今でこそ、メディアの飛躍的発達によって、どんな小さな情報であっても探し出すことが可能になってきましたが、1960年代の日本にあって、これだけの音楽を聴く、ということだけでも、周囲からは相当な音楽マニアだと思われていたことでしょう。まだまだ海外の音楽事情についての情報が乏しく、レコードの発売もリアルタイムではなかったり、ミュージシャンについても僅かな知識しか持ちえなかった当時にして、これだけ豊富なカタログを収集することができたのは、ひとえに、音楽に対する情熱以外の何物でもないように思われます。「ちびまる子ちゃん」でも、花輪君が「ああ、ビートルズならブートレグ(海賊盤)まで買ったよ」と述べているように、ある程度の財力も必要だったことでしょう。まあ、この後ろに「大瀧詠一」という変態…もとい偏執狂、あ、あんまり変わらないや、とにかくそういう偉大な人物(マニア)が控えている訳ですが、それはまたちょっと先のお話です。

話は「エイプリル・フール」に戻ります。
細野、松本の二人はこうしてバンドに参加しますが、このバンドは結局アルバムを一枚残したのみで解散してしまいます。もしあなたの周りにこのアルバムを持っている人がいたら、その人は高確率でかなりディープな音楽好きと言えるでしょう。大切にしてください。ディスクユニオンのLPバッグで学校等に通っている人を時折見かけますが、そういった類の人物に多いような気がする、というのはあながち偏見とは言えないのではあるまいかと思いますね。このアルバムは時代性もあるのかサイケデリック色が強く、ボブ・ディランの「プレッジング・マイタイム」のカヴァーを除いて、すべてが英詞主体のオリジナルで構成されています。
1970年代を目前に控えたこの時期、世界的(主に欧米でしょう)にもロックが多様化へ向かいつつあり、もともとアコースティックでポップでロマンティックなものをロックとして志向する二人(この頃ジョニ・ミッチェルやローラ・ニーロなどを好んで聴いていたようです)、及びそれに共鳴する小坂と、他のメンバーのインプロヴィゼーション重視でジャズ的なアプローチが噛み合わず、69年9月のLP発売時点で解散はほぼ決定していたようです。三人は、脱退した後どうしようかなと、新しいバンドの構想を描き始めます。
ここで、「日本語のロック」という重大なキーワードが現れてくるのです。

細野、松本両氏にあった共通認識は”日本のロックのアイデンティティは「日本語」に求めるしかない”というものであり、当時の音楽シーンで言えば、遠藤賢司やジャックスの音楽性の中に、何か新しいものを感じ取っていました。ここからひとつ分かることがあります。それは、少なくともこの時点では「日本のロック」=「日本語のロック」と捉えている点です。一見当たり前じゃないか、とも思えますが、重要な視点なのです。つまり、音楽的には自分達が聴いてきた海外のロックを(自分達で吸収し、再構成するという過程は当然経ているとしても)土台にしているということです。音楽自体を大きく変革するということはしません。これは、しないのは良くないという意味では全然なく、そもそもロックとは外国で生まれたものであり、エレキギター、ベース、ドラム、キーボードなどが主体であるという、おおまかな「型」が存在していて、その「型」の部分にまで変化を加えてしまうと、当時にあって、それはいわゆる「ロック」とは呼ばれないものになるでしょう。ずっとギター、ベース、ドラムなどを演奏していた彼らにとって、音としての「ロック」とはすなわち(エレキ)ギターであり、それは四十年近く時間が経過した現在も、実はそう大きくは変わっていないのではないかと思います。言い換えれば、彼らはロックの「精神性」の方に重心を置いたのです。言葉とは、つまり国を表し、思考の根幹となるもので、今までの英詞のロックに対し、音楽性はそのままで(ただのポップスや歌謡曲になることなく)日本語が乗ったとしたら、それだけでロックが「日本のもの」として再認識されるのではないかという直感が、二人、ひいてははっぴいえんどにはあったのだと思います。そして後に、その直感は現実のものとなるのです。

続く
<ナカムラ>
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by beatken | 2008-10-22 18:27 | review
2008年 08月 08日
ジョージ・ハリスン「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」
c0075476_16513166.jpg夏バテ解消を目指し、様々な方法を試してみましたが、どれもいまいち効きません。
脂ののった生きのいい中国ウナギも大いに食べましたし、カキ氷にリゲインぶっかけてみたり、昨日なんかは夏季限定「キットカット・スイカ味」を勢いで口に入れたりもしました。ネスレの社員が思いつきでとりあえず作ってみたんじゃないかという気がとてもする味でした。

しかしなぜだか一向に、夏バテの奴は出て行こうとはせず、「ああ、せっかく政府の言うとおりエアコンの設定温度を28℃にしてがんばっているのにやるせないことだなあ」と考えていた矢先に解決策がありました。魚心あれば水心。何事もこちらから向かっていくことが肝要っすね。

ジョージ・ハリスン「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」

久しく聴いていなかったこの一枚をターンテーブルに乗せた時から、夏バテどころか、今年の夏は今から始まるんじゃないかという気さえしてくる魔法の一枚。ジョージが亡くなってからもう七年余りが経とうとしています。生きていてもまだたかだか六十代半ば。ジョージと深い親交のあったボブ・ディランがほぼ同じ年齢で、現在もネヴァー・エンディングツアーを精力的に続けていることを考えても、あまりに早すぎる死であったと思います。
そんなことに想いを馳せながら、簡単な説明をすると、このアルバムは、前作「オール・シングス・マスト・パス」から約三年後にリリースされた、ビートルズ解散後のソロ二作目。前作の大成功や、チャリティー・コンサートの先駆け「コンサート・フォー・バングラデシュ」の開催などから、ジョージは当時「解散して一番得をしたビートル」と呼ばれ、実力・セールス共に大成功を収めていました。このアルバムも全米で五週連続アルバム・ヒットチャートの一位に輝いています。
そんな状況にありながらも、このアルバムは世間の流れとは全く別の場所に存在しているかのごとく静謐で、より宗教的な祈りの込められたものとなっています。さりとて堅苦しいものでは決してなく、逆にポップで親しみやすいところがジョージの魅力です。

一曲目、「Give Me Love(Give Me Peace On Earth)」は唯一のシングル・カット曲で、ポール率いるウィングス「マイ・ラヴ」を抜いて「マイ・スウィート・ロード」以来二度目の全米ナンバーワンを獲得。いかにもジョージらしいスライドギターと、神に語りかけるような詞。何よりもジョージのヴォーカルが何とも言えず深い味わいを醸し出していて、何度でも聴きたくなるような優しい佳曲となっています。一発目からこんな名曲とあっては、もうこのアルバム全体が素晴らしいものであることは決定事項って感じです。

レコーディングには、リンゴ・スター、ジム・ケルトナー、ニッキー・ホプキンス、クラウス・フォアマン、ゲイリー・ライトなどなど、錚々たる顔振りが参加。プロデュースは、当初フィル・スペクターに共同で依頼しようと思っていたところが、精神的に不安定・アルコール中毒などの理由から断念。ジョージのセルフ・プロデュースとなっていて、あの特徴的な「音の壁」から離れたジョージの音が聴けるアルバムである、とも言えます。

表題曲「Living In The Material World」には、物質世界(マテリアル・ワールド)に生きる自分と精神世界(スピリチュアル・スカイ)に存在する神とを対比させた詞世界が広がり、特に、ビートルズのメンバーを名指しで登場させているところが興味深いところです。物質世界について歌う時にはガチャガチャした騒がしいバッキングが、精神世界を歌う時にはシタールやタンブーラで幻想的に、という歌い分けも面白い一曲。

みんなみんな物、物、物の世界さ
ジョンとポールも御多分にもれずこの世界
ひ弱ながらも各々ソロで動き始めたが
所詮”便利なリンゴ”だけは欠かさなかった
そうさぼくらも物、物、物の世界のいい例

この”便利なリンゴ”の部分で、当のリンゴがフィル・インを入れている。ユーモアも欠かさないジョージ、最高!

他にも、ジェシ・エド・ディヴィスが「スー・ミー・スーユー・ブルース」をカバーしていたり、コンサート・フォー・バングラデシュではビートルズ再結成の可能性もあったなどなど、言及したいことは多いですが、十一曲入り四十分のアルバムが、そろそろ三周目を終わろうとしているところですので、今日はこの辺で切り上げることにしましょう。


ぼくが住んでいるのは
物、物、物の世界

ここに居れば自分さえ見失うほど
でもこんな世界に生きてこそ
全てが開け、はっきりと見えてもくるのさ



おまけ:「Give Me Love」/91年日本公演(日本人が永遠に自慢できるジョージの単独公演)

<なかむら>
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by beatken | 2008-08-08 16:51 | review
2008年 05月 23日
NICO
c0075476_15135912.jpgc0075476_15145243.jpg
こんにちは。せっかくブログがあるので、こっちのほうもぼちぼちやっていきましょう。
OBの中村といいます。

過去ログを辿っていってもらえば一目瞭然、このブログは主にディスクレビュー、そしてBritishBeatClubのイベント情報やニュース、エトセトラ…、そんなものを訥々と、ゆったりしたペースで更新していっています。リアルタイムで確認するには掲示板が一番効率がよいのですが、たまにはこちらの方ものぞいてみると、何かしら更新されていて、もしかしたら何か参考になるような情報が載っているかもしれません。

さて、せっかくなので何かレビューしてみようと思ったんですが、「レビュー」となるとどうも肩肘が張ってしまって、何か深い、体系的な知識が必要になるような気がしてハードルが高いのです。なので、より直感的というか、「これ聴いたら良かったよ」という単純なフィールドで、細かいライナーノートはディスク・ガイドにお願いするとして、気楽にやってみたいと思います。

最近僕がよく聴いているのはNICO、という女性の「Chelsea Girl」というアルバムです。この人はいわゆる生粋のミュージシャンではありません。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというグループに一瞬だけ参加してすぐに脱退した人で、その経歴はかなり華々しく、ドイツに生まれ十代からモデルとしてパリなどで大活躍し、アラン・ドロンとの子供をつくるなど、奔放な生活を送っていたようで、この他にもボブ・ディラン、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズなどと関係を噂されたという、考えてみると結構とんでもない人物です。ブロンドの美女で、フェリーニの「甘い生活」にも出演しているとか。
1960年代後半。「ロンドンで何か面白いことをやっているグループがいる」とヴェルヴェット・アンダーグラウンドに目を付けたかのアンディ・ウォーホルが、自分の作成したフィルムにも出演させたニコをメンバーに加えないかと提案して、彼女はグループに参加することになります。このヴェルヴェット・アンダーグラウンドというグループについては、簡単に一冊の本になってしまうほどの音楽的衝撃があり、とても語り尽くせるものではないので、ここでは、印象的なバナナのジャケットがすっかり有名になった、歴史的名盤「The Velvet Underground&Nico」だけに触れたいと思います。今でこそこのアルバムは、ロック史に残る一枚として大いに認識されましたが、1967年の発売当時はさっぱり売れず、注目されず、放送もされずに終わっています。そしてニコはこのアルバム一枚だけで早々とグループを脱退。その主な理由は、

「歌っている時以外に何をさせるかが問題だった」

と、あんまりにもあんまりな、無計画さとルー・リード(グループの中心人物)の気乗りしない感じがよく伝わってくるエピソードを残しています。しかしながら、彼はニコのために数曲を書き、それらの曲は今もなお名曲として聴き継がれているところが不思議なものです。

しかし実際、一切のバイアスを取り払って、彼女の声だけに耳を澄ますと、これが何ともいえない魔的で退廃的な魅力を持っていることにすぐ気が付くはずです。メロトロンのように気だるく、物憂い、耽美的な低いトーンは、場の空気を瞬時に支配して、そしてなかなか解放してくれません。フラフラと、その声の響きが遠くなるまで、何者かに操られたかのように吸い込まれてしまうような感覚を覚えます。イギリスの深い森に迷い込んでしまったような、幻想的で、不安で、それでいて妖艶な世界。
脱退後、彼女は68年に初のソロ・アルバムをリリースします。それが他でもないこの「Chelsea Girl」です。タイトルは、ウォーホルとの最初のコラボレーションとなった66年製作のフィルムから。ジャクソン・ブラウン、ボブ・ディラン、ティム・ハーディンなど、錚々たるメンバーからの楽曲提供を受けたこの作品は、おや?と思うほど素直で牧歌的。明るい色彩に彩られています。すーっと心に沁みこんでくるような声。でも、やはりどこかしらにアンニュイな、終末的、退廃的なものを感じてしまう、繰り返し聴き返したくなる名盤です。

ソロは何作かあるようですが、実はこれ一枚しか聴いたことがありません。そんなもんです。
80年代にカムバックして出したアルバムがすごくいいと誰かから聞いたような…。
中古盤屋に探しに行きたい今日この頃です。
ああユニオン行きたい…。
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by beatken | 2008-05-23 15:16 | review
2005年 09月 25日
Emitt Rhodes 『Emitt Rhodes』(1970)
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 "ワンマン・ビートルズ"”新しいポールマッカートニー”、エミット・ローズには色々な呼称が付きまとう。それは、彼の声、メロディラインなどが、ポールに酷似していたためである。全ての楽器を自分ひとりで担当するスタイルさえも。
 当時は「ビートルズ・ファンがマッカートニーの初ソロ・アルバムに期待していたのは、これだ!」とまで言われた名盤だが、なぜかそんなに知られていない。アルバム自体三作しか発表していないのだが、どうしてこんなに知名度が低いのか今だに疑問である。
 曲の方は、どれも小粋なブリティッシュ・ポップミュージックを地で行く佳曲揃い。70年のアルバムだから、時期的に、ポールがソロ活動を始めた時期とぴったり重なっている。一時期あった「ポール死亡説」の後釜として据えられたのは実はこの人ではなかったろうかという憶測をしているのはおそらく俺一人だろう。
 しかし、本人は複雑な顔をするのかもしれないけれど、本当にポールに良く似た、ハイトーンの透き通った声を持っている。音のつくりも、よくよくツボを押さえた痛快なものに仕上がっていて耳通りが抜群に良い。そこらへんにいる人達に、前知識なしで聴かせたら、800人に659人くらいは「これポールでしょ」と答えるような気がする。そしてこの数字に科学的根拠は全くない。
 全三作というとニック・ドレイクを思い出してしまうが、この人はまだ健在なんだろうか。元メリー・ゴー・ラウンドというグループにいたらしいんでその時のアルバムもあるんだろうけど。
 俺はこのアルバムしか持っていないのではっきりしたことは言えないけれども、他の二作もファンには根強い人気があるようだ。「ミラー」と「フェアウェル・トゥ・パラダイス」。
 「え?ポールのベスト?”マッカートニーⅡ”に決まってんじゃん」という頑固なポールファンも、「ポール?ああ、昔パンクやってて、その後なんか我が道を突っ走りまくった人ね」と”ポール違い”をしている人も、「ポールっつったら”ポール・ヤング”以外は認めない。ビバ!Q・ティップス!」と完全に迷走を始めている輩も、ポン、と時間が出来たけだるい午後に一曲如何。エミット・ローズは裏切らない。

 <ナカムラ>
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by beatken | 2005-09-25 03:37 | review
2005年 08月 15日
Daniel Lanois “Acadie” (1989)
サニー・ランドレスのことを書いていて思い出したのがこのダニエル・ラノア。
ルーツミュージックをやや紗に構えて探求しているという点で両者に共通するものを感じます。リゾネイター・ギターの名手という共通点もあるし。
しかし、ダニエルのほうがランドレスよりももっとルーツミュージックに対し客観的な立場に立っているような気がしますが。この辺はやはり彼がカナダ出身である上にブライアン・イーノの弟子として世間に名を馳せたという経歴の持ち主というところに関連しているのでしょう。ザ・バンドのロビー・ロバートソンが「よそ者」としてアメリカ南部音楽に憧憬を寄せたのと同じく、彼もまたアメリカンルーツミュージックに対し独特の視点を有していると思います。(実際そうした気概に共通するものがあったのでしょう、ロビーのソロアルバムのプロデューサーをつとめたりもしているラノア氏です。)
だから彼は常に自覚的なルーツ音楽観を持つ優れたアーティストにプロデューサーとして引っ張りだこです。ボブ・ディラン、U2、ネヴィル・ブラザーズなど…。独特の深遠な音像を求めて彼に製作を依頼するミュージシャンは多いです。

c0075476_22425038.jpgこれはそんな彼のファーストソロアルバム。既に世界が彼を名プロデューサーとして認めていた時期に発表されたので、一体どんな内容になるかと期待を寄せられていました。
果たしてこれは期待以上のものでしょう。ルーツミュージックへのデリケートで豊かな見識が作品として一気に結実しています。初めてこれを聴いたとき余りの音楽的な深さに驚いてしまいました。
ボヤーッとした音像が提示する不可思議で幽玄な風景。限りなく映像的で広大な音空間。閉ざされた音空間を否定し、環境と融合しうる深遠な音響。これはまさしくイーノが提唱した「環境音楽」の方法論に近しく、この点で素晴らしくコンテンポラリーな要素も孕んでいます。
しかし真に特長的なこととしては、そうした環境音楽の手法をアメリカンルーツミュージックのパースペクティブによって実現されているという部分でしょう。過去、意識的なプロダクションによってそうした効果を志向した人がいたでしょうか?強いて言うならザ・バンドのプロデューサーであるジョン・サイモンなどが近しい仕事をしていたような思いもしますが、ここまで自覚的に、かつコンテンポラリーな手法によって実現したのは彼が初ではないかと思います。本当にこれは凄いことだと思います。

しかしそういった革新性の一方で、思い起こしてみると、本来こういった幽玄な性質というのは過去のプリミティブなルーツミュージックなどが先天的に内包していたものではなかったかとも思います。ハリー・スミスが編纂した、『アンソロジー・オブ・アメリカン・ミュージック』に代表されるような、あの優麗で妖しい雰囲気。土地の霊と交信するかのような泥臭さ。本来ルーツミュージックが持っていたそうした「深み」を現代的な手法によって再提示する、そうした試みだったのではないでしょうか。
ボブ・ディランが『オー・マーシー』の製作を依頼し、また『タイム・アウト・オブ・マインド』の製作を依頼したのは、ラノアのそうした視点に注目してこそのことだったと思います。ちなみにディランは『オー・マーシー』以降、意欲的にフォークロア発掘活動を行っていきますが、そのこともラノアとの出会いが非常に大きかったのではないかと予想します。

ここに紹介するアルバムはそうしたことを強烈に感じさせてくれる名作として、音楽史上極めて重要な作品であります。同時に、ポップスとしても凄い普遍性を持つ作品で、上記のような小難しいことを抜きにしても素晴らしい作品だと思います。非常に安価で叩き売られているので是非買ってみてください。


今、本アルバムを聴きながらこれを書いています。
そして外ではもの凄い雷が鳴っています。

どうでしょう、違和感無く溶け込む環境音。作品の連続性は失われ、妖しい響きとしてしか聞き取れないようになっても失われない音響の魅力。
この作品の真価を見た思いです。

<しばさき>
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by beatken | 2005-08-15 22:42 | review