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2008年 11月 18日
はっぴいえんど(2)
c0075476_2234319.jpg2.「午前一時は宵の口」

さて続きと行きましょうか。ストロークスを聴きながら書いてますが、裏切り者とか言わないで!
結成時にはもう解散の香りが漂っていたエイプリル・フール。細野、松本両氏が考えていた新しいバンドのコンセプトは、「当時の最新ウェスト・コースト・サウンドであるバッファロー・スプリングフィールド(の『アゲイン』)を音作りの手本とし、そこに日本語が乗る」というものでした。69年7月にテレビ出演(ヤング720)した細野は、ここできっぱり

「来年は日本語とロックを結納する」

と言い切ったらしいです。結納って表現が日本人らしさを表していてなんかかっこいい。と思いきや、実は「融合」と言いたかったらしい。実際の放送は見ていないので確証は持てませんが、結納なら結納で、結構意味が通るからむしろこっちの発言を正式なものとしたい気が個人的にはします。
ところが、ここで問題が生じます。小坂の忠さんです。当初は新バンドのヴォーカリストに…というつもりが、何がどう転がったのか、日本で初めてのロック・ミュージカル『ヘアー』のオーディションに受かってしまい、出演が決定したのです。小坂忠という人は、写真で見るとかなりロック的な顔立ちをしている(ロック的な顔立ちの定義については各人の想像力にお任せします)ので、選ばれても別に不思議な感じは全然しません。しかし困ったのは細野、松本両氏です。そんな69年夏頃、細野と以前から親交のあったある人物がぬぬーっと現れます。こんな言葉を口にしながら…
心の準備はいいですか?いきますよ…。

大瀧詠一「バッファローがわかった

っかー!シビレルー!! 僕は以前から、「男が一生に一度は口にしてみたい言葉ランキング」というものを自分で作成しており、委細は省きますが、まあその中身は「あれ? 12時なのに魔法が解けないんだね」とかそういう墓場にまで持っていかねばならないワードの宝庫な訳です。そんな中にあって、燦然とTOP3にランクインしているのがこれ、「俺はバッファローがわかった」。男なら一度は分かってみたいですね、バッファロー。通過儀礼的な意味合いでね。「座右の銘は?」といつか誰かに聞かれるのを楽しみにしているところです。
話を戻して、はっぴいえんどの重要なメンバーである大瀧詠一について少し。彼は岩手県出身。いいですねー。固い感じがしますね、なんとなく。そして中学・高校時代からとてつもないポップス・フリークで、エルヴィス・プレスリー、ビーチ・ボーイズ、フォー・シーズンズ、ガール・グループ(ロネッツ、クリスタルズ、シュープリームス)、そしてビートルズを中心とするリヴァプール・サウンズ大好きっ子でした。ビートルズの『抱きしめたい』を何百回も繰り返し聴くような、そんなチャーミングな一面も。微笑ましいエピソードですね。中二でFEN(ラジオの短波放送)を聴きつつチャートをつける毎日。エルヴィスに至っては作曲家別に分類・分析するという、一歩間違うと大変なことになってしまいそうな、滅法ゴキゲンな少年だったのです。
本人はドラムスなどをちらっと叩いたことがあったのですが、将来は漠然とDJになるつもりでいたようです。1967年春、大学に落っこった彼は、予備校通いを口実に上京、水が高いところから低いところに流れるが如くナチュラルに、仕送りはレコードに変身していきます。後にブルース・クリエイションに関わっていく布谷文夫らとバンド活動を行ったりしていましたが、その布谷を通じて様々な人物と出会っていきます。その中に細野晴臣もいたのです。大瀧は細野宅で『勉強会』―なんか政治家みたいなネーミング―と称して様々なポップ・ロックを聴きまくり、作曲技術などに磨きをかけていったようです。一晩中レコードを聴いて明け方早朝ボーリング。何なんでしょうかねこの一連の流れ。意味はよく分かりませんがなんとなく納得できてしまうのがなんともいえません。願わくば、そんなテンションのまま人生を乗り切ってみたいと切に思います。
松本も、もちろん大滝と面識はありました。しかしその印象たるや、

麻雀のときやたら怒鳴る人

だったというから最高です。たしかに大瀧は、後に麻雀の歌も作ってます。70年代の学生というものは、なにかというと卓を囲んでいるような印象がありますね。
だんだんと役者が揃ってきました。

1967年以降のロックは、どちらかといえば破壊的、アナーキーなものでした。楽しくて明るいポップソングは否定され、よりドラッギーでサイケデリック志向。「政治的」なものが求められていたと言えます。ある時期のグレイトフル・デッドなどに代表される、延々と続くインプロヴィゼイション(これもまた良し、なんですが)などが人気を博していました。そこからサイケデリックをアートとして昇華させたグループが少しずつ生まれていきます。イギリスではバニラ・ファッジが相当すると言われます。そしてアメリカでは、ジェファーソン・エアプレインなどと共に、バッファロー・スプリングフィールドがこれを代表するバンドだったのです。バッファローもサイケ色溢れるバンドですが、『アゲイン』を聴くと、すごくポップで明るい色も感じられて、細野、大瀧の好みにばっちり応えていたと言えるでしょう。カントリーフレーバーにも富む名盤です。はっぴいえんどのアルバムと聴き比べてみると、非常に面白いです。

エイプリル・フールは、細野にとって、そうした、ともすると重い、難解なロックから決別し、アメリカン・ポップスのにぎやかな楽しさをバッファローを媒介にして再生させるためのバンドでした。実を言うと、大瀧は当初こうした細野の意図が分からなかったようですが、後にふと友人の勧めでバッファローのシングルを聴いたとき、はっとバッファローの良さに気がついたそうで、それが上記の「バッファローがわかった」発言へと繋がっていくのです。このとき初めて大瀧は、音楽をやる気になったのです。歴史的な瞬間と呼んでもいいでしょう。1969年9月4日のことでした。
これが、はっぴいえんどの事実的な第一歩になります。

9月23日、細野は新しいグループ名を“ヴァレンタイン・ブルー”と決定、その後松本宅において3者ミーティングが行われます。27日の「エイプリル・フール・レコード発売記念」という名の解散コンサート、10月2日の「エイプリル・フール・フリー・コンサート」の終了を待って、細野、大瀧、松本の3人は、新しいグループの構想を練るため、東北から中部を周るドライヴ旅行に出かけます。まるで一本の映画のような雰囲気ですが、いつの時代も、音楽にはこうしたロード・ムービーが必要なのかもしれません。こうした一体感を経て、バンドは新たな着想を得たり、結束を強くするのでしょう。
旅行から帰って来た後、細野はギタリストを誰にするのかを考える必要に迫られます。エイプリル・フールに比して、ヴァレンタイン・ブルーは演奏力の点で劣っていました。大瀧はギタリストとしてよりも、ヴォーカリストとしての実力を買われていたからです。バンドの構想を実現するためには、相当なテクニックを持っている人材が必要とされます。細野の頭の中には、まだ高校生ながら、抜群のギターセンスを持った1人の少年の姿がすぐに浮かんできます。
鈴木茂です。
しかし鈴木茂も、小原礼、林立夫と“スカイ”というバンドで活躍していたこともあり、細野の誘いに少し躊躇したようです。しかし、松本・大瀧のオリジナル第1作「雨あがり」、これは「12月の雨の朝」の原曲ですが、これを聴き、その作曲能力の高さ、「日本語のロック」というコンセプトに魅力を感じ、ヴァレンタイン・ブルーへの参加を決めます。そしてその場で、あの「12月の雨の朝」のイントロを飾る印象的なフレーズを創り出してしまうのです。入ってくれてよかったよかった…。

さて、前置きが長くなりましたが、これでメンバーは全員揃いました。
ヴァレンタイン・ブルーという名の「はっぴいえんど」は、ここから本格的に動き始めます。

続く
<ナカムラ>
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by beatken | 2008-11-18 22:35 | review