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2015年 01月 17日
ビート研の活躍
というわけで、また更新してみます。
現役でもなんでもない一OBなので、もしなにかあればすぐコメント欄などで言っていただければ、すぐさま対応します。

さて、誰か読んでいるのでしょうか。
見えない誰かに向かって語りかけるというのは妙な気持ちのするものですね。

僕がビート研にいたのは2005年~2008年春なので、隔世の感というほどのもんでもないですが、今部室に行ってもただひたすら困惑されそうです。三年くらい前に一度ふらっと寄ってみたのですが、その時は部室が閉っていたので、ラウンジスペースで眺めのいい景色を見ながらコーラ飲んで帰ってきました。1Fのセブンイレブンで買ったやつ。

しょうもないエクスキューズをひとつすると、ここのホームページの管理人は、2005年になりゆきで僕が引き継いで以来継承されていないので、10年経ってしまった今も、力づくで言い張れば管理人と言えないこともないような気がしないこともないようなそんなフレーバーを醸し出すことも可能と言えば可能です。まあどう考えても無理があるのですが。

閑話休題。

そのころのビート研にいた人々は、今、様々な分野で活躍しています。
音楽の分野で。また、異なるフィールドで。
たとえば、最近メディアへの露出も増えてきたトリプルファイヤーというバンドには、ビート研の出身がいます。
ビート研界隈のメンバーで構成されたインストバンド、エネルギッシュ・ゴルフ(とんでもない名前つけますね)は、つい先日1/14日にファーストアルバムが発売となり、タワレコとかアマゾンとかで買うことができます。YouTubeで動画を探してみよう!
両バンドともに、都内中心のライブも多数あるので、ふらりと寄ってみるのも面白いもんです。俺は一人でふらっと行きましたが、ライブハウスにありがちな「アウェイ感」がなく、楽しくエキサイティングな雰囲気でした。

ビート研出身のバンドといえば、SCOOBIE DOのMOBYさんがやはり有名です。
一度学園祭に一升瓶持って応援に来ていただいたことがあり、たいそう感激しました。ライブもカックイー!

かつてビート研にいた方々や、今ビート研にいるみなさんが、これからどんな活躍をするのか、ワクワクしますね。

ではまた!

# by beatken | 2015-01-17 23:01 | etc
2014年 08月 24日
ビート研のみなさんへ
ちょっと下の方ではっぴいえんどがどうしたと書いていた者です。OBです。でも歴史の長いサークルなので、割と新しめな方のOBになるのかもしれません。
今ビート研にいる人や、かつてビート研にいた人、チラッと来てダッシュで帰った人などに向けて、何か書いてみようと思います。いま、部長さんに断らず更新してしまうのもどうかと思ったので、あとで色々それなりになんとかしたいです。

このブログを立ち上げたのは、記憶が確かなら俺の代(というか俺は四年から入ったので世代というのはよく分からないんですが)のAというしゅっとした男で、彼は俺が一年遅れで入学したという時間軸のズレにより、入部したときにはすでに卒業をしていたという心温まるエピソードがあります。これだけ見ても、ビート研が当時いかに何も考えていなかったか懐が広かったかうかがい知れますね。きっと今現在も、また新しいビート研のメンバーが新しい空気をつくって面白く楽しく過ごしていることと思います。

そのブログ発起人の彼がいなくなると、名目上の「ホームページ管理人」が消えてしまい、それでも特に問題がないっちゃあなかったのですが、飲み会か何かのときに「何も役職ないことだし、とりあえずホームページの管理人やってよ」とお願いされ、言われるがままにブログのパスワードなど教えられ、ここの管理を任されました。主な仕事は掲示板にたびたび襲撃してくる桃色系迷惑アフィリエイト書き込みをせっせと削除することだったように記憶しています。
それから後引継ぎがなされたことは(おそらく)ないはずなので、あろうことか、まだここの管理人俺なの? というトンデモなロジックがここに完成してしまい、うっかりパスワードとIDを入れたら一発で通ってしまって今があるわけです。

もう長いこと訪れた覚えがないのですが、たしか2001年あたりにできた学生会館のE1117の部室、あそこはいまだに健在でしょうか。いつ行ってもグリークラブが野太くいい声でピアニカ片手に発声練習しているイメージがあったんですが、今はそのあたりどうなっているのでしょう。元々は一つ下の階に部室があったことを知っているでしょうか?今でも開かずの部室なんですかねあそこは。
部室の隣は何か練習室のようなところで、よく演劇サークルの役者さんらが稽古に使ったりしていたように思います。壁がやたら「ドーン ドーン」というので何事かと思ったら舞台の稽古だとわかり、なあんだ、それじゃあ仕方がないよね、と、それから音がするたびこちらも思いっきり部室の壁を蹴ったりしていた、なんてことは、多少あったようななかったような。しかしそれ以外は馬場、新宿、中野というサブカル中央線バミューダトライアングルみたいなところで入手してきたCDやらRECORDや、アイポッドを聴いて、時折ギター、ベース、コントラバス、コンガ、口琴、ホーミーなどを演奏している慎ましく優しいクラブでした。
内装は、いい感じのロックなポスターが絶妙な配置で敷き詰めて貼られ、本棚には誰かが寄贈して行った本でいっぱい。俺が置き遺していったレコードコレクターズ、まだ二、三冊あるのかな。
ここのホームページの掲示板は、2004年くらいからみんなmixiに移行し始めて過疎化が進みながらも、そこそこに続いていたのですが、掲示板の運営がストップしてしまったようですね。少し寂しいです。
ただ、調べてみるとビート研には、しっかりとTwitterのアカウントがあり、検索窓に「British Beat Club」と打ち込めばあっという間に出てきます。時代は変る。未確認ですがフェースブックなどもあるのやもしれません。

2009年の同窓会ライブの記事で更新が止まっていました。
この同窓会ライブはものすごい盛り上がり方をして、ビート研の裾野の広さを感じました。
打ち上げの飲み会で、OBの方々がこんな風に言っていたのが印象的でした。

「どんな音楽を聴いていてもいい。演奏していてもいい。オレンジレンジとかやってて全然いいから、ビート研が続いていてほしい」

これは、今の自分たちにしてみても、全く同じ想いです。
ビートルズ、ストーンズ、キンクス、バーズ、ニールヤングにボブディラン。黒人音楽。エトセトラ。
ブリティッシュじゃないのも結構あるな。
ビート研といえば、の雰囲気は、あってもいいし、なかったらなかったでもいいし。でもディランは今年ライブ行ったしなぁ、聴いてみてほしいなあ…。

みなさんの先輩は、驚異的なまでに卒業後飛躍しています。若干一名ブログ更新してる、ホーボーみたいなのがいますが。
あいも変わらず音楽聴いて、ライブしているみたいですよ。

興味がある人は、ぜひ入ったらいいんじゃないかな。
俺が四年で入ったとき、当時の幹事長が言い放ったのがこれです。

「いいんですいいんです、音楽に詳しいとかそういうの。こわい人とか嫌だし…」

ビート研に幸あれ。楽しくやってください!
単位とか頑張って取ってください。
早稲田駅隣「一休」で飲んだりしながら応援してます。ほっけが美味しいんだ。
ビート研のみなさんへ_c0075476_3522494.jpg


# by beatken | 2014-08-24 03:52 | etc
2009年 06月 15日
【Event】ビート研同窓会ライブ
ビート研同窓会ライブのお知らせです。

7月4日土曜日
新宿JAM
「British Beat Club同窓会ライブ」

オープン17:00
スタート17:30
前売り/当日1500円
ドリンク別(500円/飲み放題は2時間1500円←飲み放題にしたい方は受付で「飲み放題で」と伝えてください)

・出演(出演者敬称略)

2年バンド
(鳥居/芳/田中/櫻井)

三浦とアーリープロスト
(鳥居/櫻井/真島/吉田)

柴崎バンド
(柴崎/岡村/赤部/新間/土田)

thaipants
(徳山/石井/沼田)

THE SOUL ROUTE 90
(坂口(唄とハープ)/田中(ギターとコーラス)

THE LOVESUNS
(細田(vo.g)/酒井(b)/間々田(Dr.vo))

米田暮律苦 '77
(Vo.&Gt西田/Ba宮本/Drums高橋)

・タイムテーブル(予定)

17:00 オープン

17:30~17:55 ①2年バンド

18:05~18:30 ②三浦とアーリープロスト

18:40~19:05 ③柴崎バンド

19:15~19:40 ④thaipants

19:50~20:15 ⑤THE SOUL ROUTE 90

20:25~20:50 ⑥THE LOVESUNS

21:00~21:25 ⑦米田暮律苦 '77


新宿JAM
http://jam.rinky.info/map.html


(掲示板より転載byあかべ)

# by beatken | 2009-06-15 12:54 | news
2009年 05月 31日
はっぴいえんど(6)
 はっぴいえんど(6)_c0075476_221256.jpg
 事実上「解散」状態となっていたはっぴいえんどを、もう一度だけまとめあげ、何とかアルバムを残しておきたいと考えていた三浦は、四人をそれぞれ説得する一方でシンコー・ミュージックに、ロサンゼルス録音の手配を依頼しました。ソロ・アルバム・レコーディング最中の大瀧にとっても、ソロ活動の準備に入りつつあった細野にとっても、アメリカ録音は等しく魅力的で、当初アメリカ行きに反対した松本も含めて4人揃って渡米することになりました。
 サンセット・スタジオ(ロサンゼルス)では、プロデューサーにヴァン・ダイク・パークスを迎えてレコーディングに入ります。ヴァン・ダイク・パークスは、’67年にアルバム『ソング・サイクル』できわめて高い評価を受けたアーティストで、リトル・フィートなどとも親交が厚く、プロデュースやアレンジにおいても豊かな才能を発揮していました。はっぴいえんどが渡米した’72年には、やはり名作の誉れ高い『ディスカヴァー・アメリカ』を発表、「東洋のロック・バンド」はっぴいえんどのプロデューサーとしては、うってつけの人物でした。
 スタジオ入りしたはっぴいえんどは、すでに解散直後“再結成”されたも同然のバンドで、当初メンバー間にはぎくしゃくとした空気が存在していましたが、レコーディングは滞りなく進められていきました。もっとも、大瀧はソロ・アルバム完パケの朝に飛行機に乗ってやってきたくらいで、当然作品の用意はなく、現地で急遽作曲、細野もはっぴいえんどのための作品は持ち合わせていなかったので、ソロ用に書いた曲を提供、鈴木だけが日本から松本作詞の作品を準備していました。
 はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』は、’72年10月13日から18日にかけてレコーディングされ、翌’73年2月25日にベルウッドから発売されました。このアルバムは、4人のアーティストのオムニバス・アルバムともいうべき作品で、はっぴいえんどの作品と呼ぶには少しはばかられるものがあります。はっぴいえんどの「ラスト」アルバムというよりも、細野、大瀧、鈴木、松本の新たなる出発を予告するアルバムだったといえます。
 しかしながら、同アルバムの最後に収録されている名曲「さよならアメリカ・さよならニッポン」は、紛れもなく“はっぴいいえんど”+ヴァン・ダイク・パークスの作品で、アメリカ文化圏と日本文化圏の狭間を泳ぎきろうとしたロック・バンド=はっぴいえんどの面目躍如、解散にふさわしい傑作であり、今日でもそのモチーフは色あせていません。
 この渡米録音の経験が、はっぴいえんどの4人にもたらした影響は少なくありませんでした。まず何といっても、自分達の音楽のルーツであるアメリカに初めて渡ったことから得た一種のカルチャー・ショック。そしてヴァン・ダイク・パークスという鬼才から学んだサウンド作りのスピリット、テクノロジーがありました。この影響は計り知れないものがあり、細野、大瀧、鈴木、松本の4人とも、システムとしてのプロデュース、テクノロジーとしてのプロデュース、スピリットとしてのプロデュース、さらにアレンジメントの様々な手法をヴァン・ダイク・パークスから初めて学んだと言っていいでしょう。そして、アメリカン・ミュージックの底の深さ・層の厚さを、ヴァン・ダイク・パークスを通じて強烈に体験しました。後になって4人は、それぞれ別個に、ヴァン・ダイク・パークスから得たものをレコードとして具現化しています。
 細野晴臣は『HOSONO HOUSE』で、アメリカン・ミュージックやハリウッドのスタイルを細野流に総点検しました。これもヴァン・ダイク・パークスからの影響が強く現れているでしょう。大瀧詠一も『ナイアガラ・ムーン』でヴァン・ダイク・パークスに対する一種の“アンサー”を示しました。このアルバムは、アメリカン・ミュージックの深層に触れようとする試みであったと思えます。鈴木茂の“ヴァン・ダイク体験”の仕方は実にプレイヤーらしい。彼は、その後再び渡米して、デビュー・アルバム『バンド・ワゴン』を製作しました。『HAPPY END』のレコーディングにも協力したローウェル・ジョージのリトル・フィートが、『バンド・ワゴン』では全面的にバック・アップをつとめています。松本隆は、ヴァン・ダイク・パークスのプロデュースやアレンジメントの手法を、南佳孝のデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』やあがた森魚のセカンド・アルバム『噫 無情』のプロデュースの際に利用しています。
 いずれにせよ、ヴァン・ダイク・パークスに接したはっぴいえんどのこのアメリカ体験は、その後の4人の活動を語るうえで、欠かせないものとなりました。
アメリカから帰国したはっぴいえんどは、アメリカ行きが事実上の“再結成”であったため、再び分解状態となって、’72年12月31日をもって正式に解散しました。同年11月22日に、1回だけ“はっぴいえんど”としてステージに立っていますが、このときは松本隆が欠席、林立夫がドラムを担当しています。はっぴいえんど在籍中に製作された大瀧詠一のデビュー・アルバム『大瀧詠一』がリリースされたのは、このステージから3日後の11月25日のことでした。
 ‘73年に入って、『HAPPYEND』がリリースされますが(2月25日)、細野晴臣は1月頃からソロ・アルバムの準備に入り、狭山の自宅に録音機材一式を持ち込んで『HOSONO HOUSE』(’73年5月発売)をレコーディングします。このときのセッション・メンバー、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人が意気投合、新しいグループ“キャラメル・ママ”が結成されました。キャラメル・ママはこの年、吉田美奈子『扉の冬』、荒井由美『ひこうき雲』などのサウンド・プロデュースを成功させています。松本隆は“ムーンライダーズ”というグループを結成する一方、作詞家兼プロデューサーとして再スタート、皆に佳孝という逸材を発掘して風都市の専属アーティストとし、アルバム『摩天楼のヒロイン』(’73年9月発売)を製作します。大瀧詠一は福生に自宅を構えて、関西系のロック・バンド“ごまのはえ”(その後“ココナツ・パンク”と改称)などと交流、旧友布谷文夫のソロ・アルバム『悲しき夏バテ』(’73年11月発売)のプロデュースを引き受け、ごまのはえをバック・バンドに起用して’73年夏頃よりレコーディングに入っています。ごまのはえの伊藤銀次が当時シュガー・ベイブの山下達郎を“発見”して大瀧に紹介したのもこの頃です。
 ‘73年9月21日、はっぴいえんどの解散コンサート『CITY―LAST TIME AROUND』(於・文京公会堂)が催されました。これは“解散コンサート”と銘打ちながらも、実態は“再結成コンサート”であり、風都市グループのアーティストたちの顔見世興行的な性格が強いものでしたが、はっぴいえんどファンにしてみれば、やはり「解散」コンサートであり、「解散」を惜しむ一方で「再スタート」を祝うイベントとなりました。
 出演ははっぴいえんど(ピアノで鈴木慶一がサポート)のほか、キャラメル・ママ、ムーン・ライダース、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝、布谷文夫、ココナツ・パンク、大瀧詠一withココナツ・パンク+シュガー・ベイブ+ベイブ・シンガーズ・スリーで、まさに時代の節目を象徴するような、豪華絢爛な顔ぶれでした。
 この夜、「はっぴいえんど」の時代は幕を下ろしました。しかし、はっぴいえんどの日本のポピュラー音楽界、ロック界にもたらしたほんとうの“影響”はこの夜から始まり、メンバー4人それぞれの能力が正当に評価を受けるのもこの夜以降のことでした。

 ということで、六回に渡って「はっぴいえんど」の歴史を追ってみましたが、そもそもなぜ今はっぴいえんどについて書こうと思い立ったのかといえば、偶然白夜書房の「日本ロック大全」を目にする機会があり、全部面白いのですが、はっぴいえんどの部分が、自分も知らなかったことが多く、すごく面白かったので、おすそ分けという感覚で、この日本ロック大全を底本とし、そこに個人的な思い入れなどを挿入していく形で今回までやってきました。
 もしまだ一度もはっぴいえんどを聴いたことがないという人が、ちょっと聴いてみようかな、という気持ちになってもらえたら、とてもうれしいです。また、もう数千回は聴いているよ、というディープでコアな方々にも、改めてその素晴らしさ、格好良さを再確認することができれば…と思います。

 終わりに。先日、松本隆がインタビューを受けている、90年代の動画を見ました。彼は当時と全く変わらないあの口の周りでつぶやくようなしゃべり方で、こんなことを言っていました。
「僕らはあの時、“今後十年は絶対に誰にも追いつけないものを作ってやろう”っていう思いで作っていたけれど、見てみたら、どうやら、二十年経っても、まだ追い越す人が現れないみたいだね」
 こんなところにも、はっぴいえんどの、時代の先駆者、日本語のロックの開拓者としての矜持が感じられるのではないでしょうか。かっこいい!

おわり<ナカムラ>

# by beatken | 2009-05-31 02:22 | review
2009年 04月 24日
はっぴいえんど(5)
はっぴいえんど(5)_c0075476_15221659.jpg 『風街ろまん』についてもう少し。
 このアルバムでは、従来もっぱらギタリストとして活躍していた鈴木茂が、ヴォーカリスト・作曲家して、後にシングルカットされる「花いちもんめ」でデビューするという「事件」がありました。男のファンの多い武骨なはっぴいえんどに、ごくわずかながら存在した女性ファンは、このちょっと頼りなげな、でも若々しく繊細な声と容貌に魅了されたのでした。個人的にも、この「花いちもんめ」は伸びやかで、歌詞のイメージも、鮮烈な放物線を描きながら心に吸い込まれてくるようで、何度聴いてもまた新しい気持ちで聴くことのできる佳曲であると思います。
 『風街ろまん』の一般的評価は、細野サウンドの“フォーク化”ばかりがことさらに強調され、必ずしも『はっぴいえんど』よりも高くはありませんでした。一方、URC系のアーティストやそのファンからは、洗練されたアコースティック・サウンドとして高い評価を得ました。しかし、『風街ろまん』はどう考えてもロック・アルバムとしかいい様がありません。サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジェイムズ・テイラーなどが、イギリス、アメリカの「ロック」に与えた影響は計り知れないものであったにも関わらず、こと日本で彼らの影響を受けたというと、たちまち“フォーク”の烙印を押され、嘲笑される。そんなムードが当時の日本にはあったようです。『風街ろまん』において、細野、大瀧を横糸として松本が編み上げた都市論こそ、彼らが意図した「日本語のロック」であり、その音がたとえウエスト・コーストの色彩を帯びていることが確かだとしても、「風をあつめて」などの細野作品を取り上げて「そら見たことか、やっぱりフォークだ」と鬼の首を取ったように批判するのはとんだお門違いといわざるを得ません。むしろこのアルバムは、いわゆる「はっぴいえんどサウンド=日本語のロック」という点で、これ以上ないほど緻密な完成度を誇っているといえます。
 一方で、「自分の曲は自分で製作する」という録音スタイルは、はっぴいえんど解散に至る一つの道筋を示してもいたのでした。

 71年度の彼らの業績の二番目として挙げたのは、そのスタジオ・ワークの豊富さです。
はっぴいえんどのメンバーが参加した主なレコードを見ると、
 高田渡『ごあいさつ』(キング)
 加川良『教訓』(URC)
 金延幸子『時にまかせて』(ビクター、名盤!!)
 南正人『回帰線』(RCAビクター)
 小坂忠『ありがとう』(コロムビア/マッシュルーム)
 遠藤賢司『満足できるかな』(ポリドール)
 ザ・ディランⅡ『男らしいってわかるかい』(URC)

などが挙げられます。この年メジャー・デビューした高田渡、遠藤賢司、金延幸子がURC系のミュージシャンであったことから、はっぴいえんどがURC系のアーティストに肩入れしていたことが窺われます。南正人と小坂忠は細野の旧来の友人ということもあり、その関係からでしょう。
 URC系を中心とするはっぴいえんどのこうしたバックアップは、はっぴいえんどとフォークとの結びつきを強く印象付け、彼らのロック界での評価にネガティブな影響を与えましたが、そもそもこうしたスタジオ・ワークは、ディレクターとアーティスト側の要請があって始めて成立するものであり、個々の作品だけを見て一方的な判断を下してしまうのは浅はかな態度なのではないかと思います。特に細野や鈴木の演奏テクニックはずば抜けて高く、彼らがバックアップするだけで、ギター一本の原曲のイメージが一変してしまうような魔法の力を持っていました。彼らにしても、そうしたフォーク系のミュージシャン達から受ける影響も大きかったでしょうし、何か「新しいもの」を模索しているという点では、ロックもフォークも同じ立ち位置にいたのだと思います。特に、大瀧にとっての初プロデュースとなる金延幸子の『時にまかせて』の、ごくごく淡い中に、彼女の清新な声の伸び、静謐さ、柔らかさを存分に引き出す手腕は、ため息の出るほど美しく、何か敬虔なものをすら感じてしまいます。
 72年以降も、はっぴいえんどのメンバーによるこうしたスタジオ・ワークはますます盛んになり、フォークばかりでなくミッキー・カーチス、布谷文夫といったロック・アーティストからジャズシンガー笠井紀美子のレコーディングまで、幅広い活躍を見せます。中心となっていたのは主に細野と鈴木で、二人の活動はやがてキャラメル・ママ/ティン・パン・アレーへと繋がっていきます。こうした「はっぴいえんど関連盤」を掘り下げていくのは、ファンにとって息の長い楽しみの一つでしょう。
 
 71年のはっぴいえんどの業績としてもう一つ挙げたのは、彼らの音楽活動を支える事務所“風都市”の設立です。この年の1月21日をもって岡林信康のバック・バンドを退いたはっぴいえんどは、従来の事務所である音楽舎に対して距離を置き始め、レコード会社こそURCでしたが、自分たちの音楽活動をより容易にするために独自のオフィス“風都市”を設立(4月頃)します。これはおそらくマネージメント担当の石浦信三らの発案によるもので、“風都市”というネーミングは、松本がセカンド・アルバム用に用意したタイトルを“借り出した”ものでした。そのため、セカンド・アルバムのタイトルが『風街ろまん』になるのです。
 “風都市”を実質的に仕切ったのは、はっぴいえんどのメンバーではなく、石浦信三を初めとする数人の人間でしたが、その活動は、はっぴいえんどとその周辺のアーティスト(はちみつぱい、ぱふ<吉田美奈子のグループ>、DEW<布谷文夫のグループ>など)の表現の場の確保と、ギャランティー関係、マネージメント業務を目標としていました。
 風都市の最初の活動は、東京は渋谷百軒店にオープン(4月28日)した“BYG”というライヴ・スポットのブッキングでした。“BYG”は、当時東京では数少ないロックを聴かせる店で、昼間は1、2階でレコード、夜は地下でライヴというシステムをとっていました。ライヴのブッキングが全面的に風都市に任されたため、その出し物は異色で、はっぴいえんどをはじめ、あがた森魚、はちみつぱい、ぱふ、DEW、乱魔堂、小坂忠などが“メニュー”の中心でした。なんというメンツでしょうか…!!また、風都市は各地で開催されるコンサートやイヴェントにも積極的に関与していきました。
 72年春頃までBYGのブッキングを担当していた風都市でしたが、BYGのライヴが中止になったことに伴い、同店から手を引き、今度は株式会社組織に改組、事務所も六本木から市ヶ谷に移転して再出発します。正確には、ウィンド・コーポレイション(プロモーション業務)とシティ・ミュージック(音楽出版業務)のふたつの会社を興し、アメリカ的なプロダクション・システムの確立を目標に活動します。
 特にシティ・ミュージックは、はっぴいえんど正式解散の年、’73年まで精力的な事業活動を行い、南佳孝『摩天楼のヒロイン』(プロデュース・松本隆)、吉田美奈子『冬の扉』(プロデュース・キャラメル・ママ)の二枚のLPを、トリオ・レコードのショーボート・レーベルからリリース、原版製作会社としてのポジションを獲得しようとしますが、セールス的には失敗、シティ・ミュージックの活動は73年一杯で終止符を打ちます。しかし、風都市―ウィンド・コーポレイション/シティ・ミュージックの音楽産業全体に及ぼした影響は大きく、その後の日本の音楽産業は彼らの目標としたプロダクション・システムへと指向していくことになるのです。はっぴいえんどとその周辺のアーティストたちのための、音楽制作環境の構築を主眼として活動するその過程を通じて、日本の音楽産業の構造を改革するひとつのきっかけにもなったのでした。例えばベルウッド・レコードの設立のような、レコード製作者の側から、新しいアーティストたちの表現の場を確保しようとした試みなどは、風都市の活動と呼応するように行われていました。
 
4.終りの始まり

 『風街ろまん』以後のはっぴいえんどは、バンドとしてのまとまりをしだいに失っていきました。アルバムのクレジットを見ても分かる通り、作曲者が各自各作をプロデュースするスタイルが採られていたので、バンドとしてのサウンドを目指しながらも、結果的に『風街ろまん』には、各メンバーの個性が強く前面に現れることになりました。
 すでにアルバムの製作時点で、細野、大瀧はもちろん、鈴木もソロ・アーティストとしての才能を十分に発揮していたのであり、松本も作詞家としての才能を開花させていました。言ってみれば、はっぴいえんどの、バンドとしての最高点は『はっぴいえんど』であり、『風街ろまん』では、さながらビートルズの『ホワイト・アルバム』の如く、メンバーが各々の個性を「はっぴいえんど」という媒体を通じて表現していったという見方ができるでしょう。『風街ろまん』以後、バンドとしてのはっぴいえんどの存在意義がしだいに希薄なものになっていくのは当然の成り行きだったかも知れません。
 はっぴいえんどのバンドとしてのアイデンティティーを失わせるきっかけとなったのは、大瀧詠一のソロ・アルバム製作でした。細野、鈴木両氏はバンド以外にもスタジオ・ミュージシャンとしての仕事があり、他のアーティストと関わる機会もあったわけですが、楽器演奏のテクニックのない大瀧や、ドラマーとしては評価のあまり高くなかった松本にしてみれば、スタジオで日銭を稼ぐわけにはいかず、作品で勝負するほかありませんでした。そこで、大瀧はベルウッドから持ち込まれたソロ・アルバム製作の話に乗るのですが、このことで、他のメンバーとの間に微妙な軋轢が生じたことも事実でした。
 大瀧のソロ・レコーディングは、71年10月に始められました。10月6日に『風街ろまん』のミックス・ダウンが終わって、三日後にはまずシングル「恋の汽車ポッポ/それはぼくじゃないよ」のレコーディング、『風街ろまん』の発売が11月であったのに対し、大瀧のシングルの発売は12月でした。自分達だって十分ソロでやっていけるのに、大瀧に先を越された形の他のメンバーは、当然あまり面白くなかったんじゃないか、と思われます。その後、大瀧ははっぴいえんどのメンバーとしてステージを務める一方、72年3月よりアルバム製作に入り、『風街ろまん』からちょうど一年経った72年11月にソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースします。
この間、はっぴいえんどには一時、ベーシストとして野地義行(第1期ブルース・クリエイション、ぱふなどで活躍)が参加していました。これは、細野がキーボードに専念してステージでのサウンドに厚みを出すためでしたが、実際には72年4月から同年夏頃までの間のことで、野地ははっぴいえんどのメンバーとしての作品は残していません。わずかに、大瀧のソロ・デビュー・アルバムの「五月雨」でベースを演奏したクレジットが残っているばかりです。
大瀧のソロ・アルバム製作の過程では、はっぴいえんどの他のメンバーも全面的に協力していますが、むべなるかな、細野、鈴木はそれほど積極的なわけではなかったようです。特に細野はこの時点ですでにはっぴいえんどとしての活動に限界を見ていました。大瀧にしても、はっぴいえんどに対する帰属意識は強かったものの、ソロ・アルバム製作をきっかけに、バンド内における自分の位置を維持することが難しくなってきており、細野、大瀧、ともに、この時点ではっぴいえんどの解散を決意していたと思われます。つまり、実質的な解散は72年夏には決まり、あとはすでにブッキングされていたコンサート・ツアーを消化するだけでした。
しかし、同じ頃、精神的にはもうばらばらになっていた四人を、なんとかもう一度だけまとめ上げようとした人物がいます。
それは、ベルウッドの三浦光紀でした。彼は、なんとかあと一枚、はっぴいえんどのアルバムを残したいと、四人にひとつの提案をします。
ロサンゼルスでの録音です。ここから、さながら『アビイ・ロード』のような、はっぴいえんどの最後の輝きがきらめくことになります。

続く。
<ナカムラ>

# by beatken | 2009-04-24 15:22 | review