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2009年 04月 24日
はっぴいえんど(5)
はっぴいえんど(5)_c0075476_15221659.jpg 『風街ろまん』についてもう少し。
 このアルバムでは、従来もっぱらギタリストとして活躍していた鈴木茂が、ヴォーカリスト・作曲家して、後にシングルカットされる「花いちもんめ」でデビューするという「事件」がありました。男のファンの多い武骨なはっぴいえんどに、ごくわずかながら存在した女性ファンは、このちょっと頼りなげな、でも若々しく繊細な声と容貌に魅了されたのでした。個人的にも、この「花いちもんめ」は伸びやかで、歌詞のイメージも、鮮烈な放物線を描きながら心に吸い込まれてくるようで、何度聴いてもまた新しい気持ちで聴くことのできる佳曲であると思います。
 『風街ろまん』の一般的評価は、細野サウンドの“フォーク化”ばかりがことさらに強調され、必ずしも『はっぴいえんど』よりも高くはありませんでした。一方、URC系のアーティストやそのファンからは、洗練されたアコースティック・サウンドとして高い評価を得ました。しかし、『風街ろまん』はどう考えてもロック・アルバムとしかいい様がありません。サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジェイムズ・テイラーなどが、イギリス、アメリカの「ロック」に与えた影響は計り知れないものであったにも関わらず、こと日本で彼らの影響を受けたというと、たちまち“フォーク”の烙印を押され、嘲笑される。そんなムードが当時の日本にはあったようです。『風街ろまん』において、細野、大瀧を横糸として松本が編み上げた都市論こそ、彼らが意図した「日本語のロック」であり、その音がたとえウエスト・コーストの色彩を帯びていることが確かだとしても、「風をあつめて」などの細野作品を取り上げて「そら見たことか、やっぱりフォークだ」と鬼の首を取ったように批判するのはとんだお門違いといわざるを得ません。むしろこのアルバムは、いわゆる「はっぴいえんどサウンド=日本語のロック」という点で、これ以上ないほど緻密な完成度を誇っているといえます。
 一方で、「自分の曲は自分で製作する」という録音スタイルは、はっぴいえんど解散に至る一つの道筋を示してもいたのでした。

 71年度の彼らの業績の二番目として挙げたのは、そのスタジオ・ワークの豊富さです。
はっぴいえんどのメンバーが参加した主なレコードを見ると、
 高田渡『ごあいさつ』(キング)
 加川良『教訓』(URC)
 金延幸子『時にまかせて』(ビクター、名盤!!)
 南正人『回帰線』(RCAビクター)
 小坂忠『ありがとう』(コロムビア/マッシュルーム)
 遠藤賢司『満足できるかな』(ポリドール)
 ザ・ディランⅡ『男らしいってわかるかい』(URC)

などが挙げられます。この年メジャー・デビューした高田渡、遠藤賢司、金延幸子がURC系のミュージシャンであったことから、はっぴいえんどがURC系のアーティストに肩入れしていたことが窺われます。南正人と小坂忠は細野の旧来の友人ということもあり、その関係からでしょう。
 URC系を中心とするはっぴいえんどのこうしたバックアップは、はっぴいえんどとフォークとの結びつきを強く印象付け、彼らのロック界での評価にネガティブな影響を与えましたが、そもそもこうしたスタジオ・ワークは、ディレクターとアーティスト側の要請があって始めて成立するものであり、個々の作品だけを見て一方的な判断を下してしまうのは浅はかな態度なのではないかと思います。特に細野や鈴木の演奏テクニックはずば抜けて高く、彼らがバックアップするだけで、ギター一本の原曲のイメージが一変してしまうような魔法の力を持っていました。彼らにしても、そうしたフォーク系のミュージシャン達から受ける影響も大きかったでしょうし、何か「新しいもの」を模索しているという点では、ロックもフォークも同じ立ち位置にいたのだと思います。特に、大瀧にとっての初プロデュースとなる金延幸子の『時にまかせて』の、ごくごく淡い中に、彼女の清新な声の伸び、静謐さ、柔らかさを存分に引き出す手腕は、ため息の出るほど美しく、何か敬虔なものをすら感じてしまいます。
 72年以降も、はっぴいえんどのメンバーによるこうしたスタジオ・ワークはますます盛んになり、フォークばかりでなくミッキー・カーチス、布谷文夫といったロック・アーティストからジャズシンガー笠井紀美子のレコーディングまで、幅広い活躍を見せます。中心となっていたのは主に細野と鈴木で、二人の活動はやがてキャラメル・ママ/ティン・パン・アレーへと繋がっていきます。こうした「はっぴいえんど関連盤」を掘り下げていくのは、ファンにとって息の長い楽しみの一つでしょう。
 
 71年のはっぴいえんどの業績としてもう一つ挙げたのは、彼らの音楽活動を支える事務所“風都市”の設立です。この年の1月21日をもって岡林信康のバック・バンドを退いたはっぴいえんどは、従来の事務所である音楽舎に対して距離を置き始め、レコード会社こそURCでしたが、自分たちの音楽活動をより容易にするために独自のオフィス“風都市”を設立(4月頃)します。これはおそらくマネージメント担当の石浦信三らの発案によるもので、“風都市”というネーミングは、松本がセカンド・アルバム用に用意したタイトルを“借り出した”ものでした。そのため、セカンド・アルバムのタイトルが『風街ろまん』になるのです。
 “風都市”を実質的に仕切ったのは、はっぴいえんどのメンバーではなく、石浦信三を初めとする数人の人間でしたが、その活動は、はっぴいえんどとその周辺のアーティスト(はちみつぱい、ぱふ<吉田美奈子のグループ>、DEW<布谷文夫のグループ>など)の表現の場の確保と、ギャランティー関係、マネージメント業務を目標としていました。
 風都市の最初の活動は、東京は渋谷百軒店にオープン(4月28日)した“BYG”というライヴ・スポットのブッキングでした。“BYG”は、当時東京では数少ないロックを聴かせる店で、昼間は1、2階でレコード、夜は地下でライヴというシステムをとっていました。ライヴのブッキングが全面的に風都市に任されたため、その出し物は異色で、はっぴいえんどをはじめ、あがた森魚、はちみつぱい、ぱふ、DEW、乱魔堂、小坂忠などが“メニュー”の中心でした。なんというメンツでしょうか…!!また、風都市は各地で開催されるコンサートやイヴェントにも積極的に関与していきました。
 72年春頃までBYGのブッキングを担当していた風都市でしたが、BYGのライヴが中止になったことに伴い、同店から手を引き、今度は株式会社組織に改組、事務所も六本木から市ヶ谷に移転して再出発します。正確には、ウィンド・コーポレイション(プロモーション業務)とシティ・ミュージック(音楽出版業務)のふたつの会社を興し、アメリカ的なプロダクション・システムの確立を目標に活動します。
 特にシティ・ミュージックは、はっぴいえんど正式解散の年、’73年まで精力的な事業活動を行い、南佳孝『摩天楼のヒロイン』(プロデュース・松本隆)、吉田美奈子『冬の扉』(プロデュース・キャラメル・ママ)の二枚のLPを、トリオ・レコードのショーボート・レーベルからリリース、原版製作会社としてのポジションを獲得しようとしますが、セールス的には失敗、シティ・ミュージックの活動は73年一杯で終止符を打ちます。しかし、風都市―ウィンド・コーポレイション/シティ・ミュージックの音楽産業全体に及ぼした影響は大きく、その後の日本の音楽産業は彼らの目標としたプロダクション・システムへと指向していくことになるのです。はっぴいえんどとその周辺のアーティストたちのための、音楽制作環境の構築を主眼として活動するその過程を通じて、日本の音楽産業の構造を改革するひとつのきっかけにもなったのでした。例えばベルウッド・レコードの設立のような、レコード製作者の側から、新しいアーティストたちの表現の場を確保しようとした試みなどは、風都市の活動と呼応するように行われていました。
 
4.終りの始まり

 『風街ろまん』以後のはっぴいえんどは、バンドとしてのまとまりをしだいに失っていきました。アルバムのクレジットを見ても分かる通り、作曲者が各自各作をプロデュースするスタイルが採られていたので、バンドとしてのサウンドを目指しながらも、結果的に『風街ろまん』には、各メンバーの個性が強く前面に現れることになりました。
 すでにアルバムの製作時点で、細野、大瀧はもちろん、鈴木もソロ・アーティストとしての才能を十分に発揮していたのであり、松本も作詞家としての才能を開花させていました。言ってみれば、はっぴいえんどの、バンドとしての最高点は『はっぴいえんど』であり、『風街ろまん』では、さながらビートルズの『ホワイト・アルバム』の如く、メンバーが各々の個性を「はっぴいえんど」という媒体を通じて表現していったという見方ができるでしょう。『風街ろまん』以後、バンドとしてのはっぴいえんどの存在意義がしだいに希薄なものになっていくのは当然の成り行きだったかも知れません。
 はっぴいえんどのバンドとしてのアイデンティティーを失わせるきっかけとなったのは、大瀧詠一のソロ・アルバム製作でした。細野、鈴木両氏はバンド以外にもスタジオ・ミュージシャンとしての仕事があり、他のアーティストと関わる機会もあったわけですが、楽器演奏のテクニックのない大瀧や、ドラマーとしては評価のあまり高くなかった松本にしてみれば、スタジオで日銭を稼ぐわけにはいかず、作品で勝負するほかありませんでした。そこで、大瀧はベルウッドから持ち込まれたソロ・アルバム製作の話に乗るのですが、このことで、他のメンバーとの間に微妙な軋轢が生じたことも事実でした。
 大瀧のソロ・レコーディングは、71年10月に始められました。10月6日に『風街ろまん』のミックス・ダウンが終わって、三日後にはまずシングル「恋の汽車ポッポ/それはぼくじゃないよ」のレコーディング、『風街ろまん』の発売が11月であったのに対し、大瀧のシングルの発売は12月でした。自分達だって十分ソロでやっていけるのに、大瀧に先を越された形の他のメンバーは、当然あまり面白くなかったんじゃないか、と思われます。その後、大瀧ははっぴいえんどのメンバーとしてステージを務める一方、72年3月よりアルバム製作に入り、『風街ろまん』からちょうど一年経った72年11月にソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースします。
この間、はっぴいえんどには一時、ベーシストとして野地義行(第1期ブルース・クリエイション、ぱふなどで活躍)が参加していました。これは、細野がキーボードに専念してステージでのサウンドに厚みを出すためでしたが、実際には72年4月から同年夏頃までの間のことで、野地ははっぴいえんどのメンバーとしての作品は残していません。わずかに、大瀧のソロ・デビュー・アルバムの「五月雨」でベースを演奏したクレジットが残っているばかりです。
大瀧のソロ・アルバム製作の過程では、はっぴいえんどの他のメンバーも全面的に協力していますが、むべなるかな、細野、鈴木はそれほど積極的なわけではなかったようです。特に細野はこの時点ですでにはっぴいえんどとしての活動に限界を見ていました。大瀧にしても、はっぴいえんどに対する帰属意識は強かったものの、ソロ・アルバム製作をきっかけに、バンド内における自分の位置を維持することが難しくなってきており、細野、大瀧、ともに、この時点ではっぴいえんどの解散を決意していたと思われます。つまり、実質的な解散は72年夏には決まり、あとはすでにブッキングされていたコンサート・ツアーを消化するだけでした。
しかし、同じ頃、精神的にはもうばらばらになっていた四人を、なんとかもう一度だけまとめ上げようとした人物がいます。
それは、ベルウッドの三浦光紀でした。彼は、なんとかあと一枚、はっぴいえんどのアルバムを残したいと、四人にひとつの提案をします。
ロサンゼルスでの録音です。ここから、さながら『アビイ・ロード』のような、はっぴいえんどの最後の輝きがきらめくことになります。

続く。
<ナカムラ>

by beatken | 2009-04-24 15:22 | review


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