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2009年 05月 31日
はっぴいえんど(6)
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 事実上「解散」状態となっていたはっぴいえんどを、もう一度だけまとめあげ、何とかアルバムを残しておきたいと考えていた三浦は、四人をそれぞれ説得する一方でシンコー・ミュージックに、ロサンゼルス録音の手配を依頼しました。ソロ・アルバム・レコーディング最中の大瀧にとっても、ソロ活動の準備に入りつつあった細野にとっても、アメリカ録音は等しく魅力的で、当初アメリカ行きに反対した松本も含めて4人揃って渡米することになりました。
 サンセット・スタジオ(ロサンゼルス)では、プロデューサーにヴァン・ダイク・パークスを迎えてレコーディングに入ります。ヴァン・ダイク・パークスは、’67年にアルバム『ソング・サイクル』できわめて高い評価を受けたアーティストで、リトル・フィートなどとも親交が厚く、プロデュースやアレンジにおいても豊かな才能を発揮していました。はっぴいえんどが渡米した’72年には、やはり名作の誉れ高い『ディスカヴァー・アメリカ』を発表、「東洋のロック・バンド」はっぴいえんどのプロデューサーとしては、うってつけの人物でした。
 スタジオ入りしたはっぴいえんどは、すでに解散直後“再結成”されたも同然のバンドで、当初メンバー間にはぎくしゃくとした空気が存在していましたが、レコーディングは滞りなく進められていきました。もっとも、大瀧はソロ・アルバム完パケの朝に飛行機に乗ってやってきたくらいで、当然作品の用意はなく、現地で急遽作曲、細野もはっぴいえんどのための作品は持ち合わせていなかったので、ソロ用に書いた曲を提供、鈴木だけが日本から松本作詞の作品を準備していました。
 はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』は、’72年10月13日から18日にかけてレコーディングされ、翌’73年2月25日にベルウッドから発売されました。このアルバムは、4人のアーティストのオムニバス・アルバムともいうべき作品で、はっぴいえんどの作品と呼ぶには少しはばかられるものがあります。はっぴいえんどの「ラスト」アルバムというよりも、細野、大瀧、鈴木、松本の新たなる出発を予告するアルバムだったといえます。
 しかしながら、同アルバムの最後に収録されている名曲「さよならアメリカ・さよならニッポン」は、紛れもなく“はっぴいいえんど”+ヴァン・ダイク・パークスの作品で、アメリカ文化圏と日本文化圏の狭間を泳ぎきろうとしたロック・バンド=はっぴいえんどの面目躍如、解散にふさわしい傑作であり、今日でもそのモチーフは色あせていません。
 この渡米録音の経験が、はっぴいえんどの4人にもたらした影響は少なくありませんでした。まず何といっても、自分達の音楽のルーツであるアメリカに初めて渡ったことから得た一種のカルチャー・ショック。そしてヴァン・ダイク・パークスという鬼才から学んだサウンド作りのスピリット、テクノロジーがありました。この影響は計り知れないものがあり、細野、大瀧、鈴木、松本の4人とも、システムとしてのプロデュース、テクノロジーとしてのプロデュース、スピリットとしてのプロデュース、さらにアレンジメントの様々な手法をヴァン・ダイク・パークスから初めて学んだと言っていいでしょう。そして、アメリカン・ミュージックの底の深さ・層の厚さを、ヴァン・ダイク・パークスを通じて強烈に体験しました。後になって4人は、それぞれ別個に、ヴァン・ダイク・パークスから得たものをレコードとして具現化しています。
 細野晴臣は『HOSONO HOUSE』で、アメリカン・ミュージックやハリウッドのスタイルを細野流に総点検しました。これもヴァン・ダイク・パークスからの影響が強く現れているでしょう。大瀧詠一も『ナイアガラ・ムーン』でヴァン・ダイク・パークスに対する一種の“アンサー”を示しました。このアルバムは、アメリカン・ミュージックの深層に触れようとする試みであったと思えます。鈴木茂の“ヴァン・ダイク体験”の仕方は実にプレイヤーらしい。彼は、その後再び渡米して、デビュー・アルバム『バンド・ワゴン』を製作しました。『HAPPY END』のレコーディングにも協力したローウェル・ジョージのリトル・フィートが、『バンド・ワゴン』では全面的にバック・アップをつとめています。松本隆は、ヴァン・ダイク・パークスのプロデュースやアレンジメントの手法を、南佳孝のデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』やあがた森魚のセカンド・アルバム『噫 無情』のプロデュースの際に利用しています。
 いずれにせよ、ヴァン・ダイク・パークスに接したはっぴいえんどのこのアメリカ体験は、その後の4人の活動を語るうえで、欠かせないものとなりました。
アメリカから帰国したはっぴいえんどは、アメリカ行きが事実上の“再結成”であったため、再び分解状態となって、’72年12月31日をもって正式に解散しました。同年11月22日に、1回だけ“はっぴいえんど”としてステージに立っていますが、このときは松本隆が欠席、林立夫がドラムを担当しています。はっぴいえんど在籍中に製作された大瀧詠一のデビュー・アルバム『大瀧詠一』がリリースされたのは、このステージから3日後の11月25日のことでした。
 ‘73年に入って、『HAPPYEND』がリリースされますが(2月25日)、細野晴臣は1月頃からソロ・アルバムの準備に入り、狭山の自宅に録音機材一式を持ち込んで『HOSONO HOUSE』(’73年5月発売)をレコーディングします。このときのセッション・メンバー、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人が意気投合、新しいグループ“キャラメル・ママ”が結成されました。キャラメル・ママはこの年、吉田美奈子『扉の冬』、荒井由美『ひこうき雲』などのサウンド・プロデュースを成功させています。松本隆は“ムーンライダーズ”というグループを結成する一方、作詞家兼プロデューサーとして再スタート、皆に佳孝という逸材を発掘して風都市の専属アーティストとし、アルバム『摩天楼のヒロイン』(’73年9月発売)を製作します。大瀧詠一は福生に自宅を構えて、関西系のロック・バンド“ごまのはえ”(その後“ココナツ・パンク”と改称)などと交流、旧友布谷文夫のソロ・アルバム『悲しき夏バテ』(’73年11月発売)のプロデュースを引き受け、ごまのはえをバック・バンドに起用して’73年夏頃よりレコーディングに入っています。ごまのはえの伊藤銀次が当時シュガー・ベイブの山下達郎を“発見”して大瀧に紹介したのもこの頃です。
 ‘73年9月21日、はっぴいえんどの解散コンサート『CITY―LAST TIME AROUND』(於・文京公会堂)が催されました。これは“解散コンサート”と銘打ちながらも、実態は“再結成コンサート”であり、風都市グループのアーティストたちの顔見世興行的な性格が強いものでしたが、はっぴいえんどファンにしてみれば、やはり「解散」コンサートであり、「解散」を惜しむ一方で「再スタート」を祝うイベントとなりました。
 出演ははっぴいえんど(ピアノで鈴木慶一がサポート)のほか、キャラメル・ママ、ムーン・ライダース、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝、布谷文夫、ココナツ・パンク、大瀧詠一withココナツ・パンク+シュガー・ベイブ+ベイブ・シンガーズ・スリーで、まさに時代の節目を象徴するような、豪華絢爛な顔ぶれでした。
 この夜、「はっぴいえんど」の時代は幕を下ろしました。しかし、はっぴいえんどの日本のポピュラー音楽界、ロック界にもたらしたほんとうの“影響”はこの夜から始まり、メンバー4人それぞれの能力が正当に評価を受けるのもこの夜以降のことでした。

 ということで、六回に渡って「はっぴいえんど」の歴史を追ってみましたが、そもそもなぜ今はっぴいえんどについて書こうと思い立ったのかといえば、偶然白夜書房の「日本ロック大全」を目にする機会があり、全部面白いのですが、はっぴいえんどの部分が、自分も知らなかったことが多く、すごく面白かったので、おすそ分けという感覚で、この日本ロック大全を底本とし、そこに個人的な思い入れなどを挿入していく形で今回までやってきました。
 もしまだ一度もはっぴいえんどを聴いたことがないという人が、ちょっと聴いてみようかな、という気持ちになってもらえたら、とてもうれしいです。また、もう数千回は聴いているよ、というディープでコアな方々にも、改めてその素晴らしさ、格好良さを再確認することができれば…と思います。

 終わりに。先日、松本隆がインタビューを受けている、90年代の動画を見ました。彼は当時と全く変わらないあの口の周りでつぶやくようなしゃべり方で、こんなことを言っていました。
「僕らはあの時、“今後十年は絶対に誰にも追いつけないものを作ってやろう”っていう思いで作っていたけれど、見てみたら、どうやら、二十年経っても、まだ追い越す人が現れないみたいだね」
 こんなところにも、はっぴいえんどの、時代の先駆者、日本語のロックの開拓者としての矜持が感じられるのではないでしょうか。かっこいい!

おわり<ナカムラ>

by beatken | 2009-05-31 02:22 | review


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